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今どきのキーワード

掲載号 キーワード
第22号 学習権
第16号 ネットワーク
第13号 エスノグラフィー(ethnography)
第12号 アクション・リサーチ(Action research)
第10号 リテラシー(Literacy)
第8号 BICS(伝達言語)とCALP(学習言語)

第22号掲載

いまさらのキーワード…「学習権

 

 中国帰国者、定住外国人等の支援に関わる活動では、その理念や目的として“学習権”の保障ということがよく聞かれます。この“学習権”は、成人学習者にとっても非常に重要なキーワードではありますが、ここでは子どもの“学習権”について取り上げてみたいと思います。

 辞書や事典によれば、“学習権”とは、日本国憲法が保障する「教育を受ける権利」(第26条第1項)を教育学の観点から捉えおなし、学習する主体の側から表現した言葉であり、「子どもが自立した人間へと成長するために、必要かつ適切な学習環境および条件を、親、教師、教育行政機関など教育の実施主体に要求する権利」と説明されています。

 参政権、労働権など他の基本的人権保障の前提をなすという意味で「人権中の人権」とも言うべきこの権利は、外国人の場合、どのような法的根拠を持っているのでしょうか。これについては、まず、国連が1966年に採択した国際条約である『国際人権規約』(日本は79年に批准)が挙げられます。規約1「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第13条1項では、教育が、すべての者に対し「自由な社会に効果的に参加すること」を可能にすべきものであることが述べられており、第2項(a)では、初等教育は、義務的なもの、無償のものとするよう規定されています。(これは初等教育つまり小学校だけの規定になってはいますが、日本は小中学校が義務教育とされていることから、中学校も同様に扱われるべきものと考えられています)。また、1989年に国連総会で採択され、90年に国際法として発効、94年に日本が批准した「子どもの権利条約」でも、第2条1項、第28条1項で、締約国の「管轄内のどの子ども」に対しても差別なく教育を受ける権利が保障されるべきものであること、初等教育の義務化、無償化が定められており、こうした根拠から、保護者には子どもを日本の学校に就学させる義務はないが、就学希望者についてはすべて受け入れ、日本人と同じ行財政的待遇が受けられるものと考えられています。

 しかし、ここで規定されている内容は実質的な学習権のごく一部であり、就学はいわばその“入り口”にすぎません。就学の後保障されるべき学習の内容についても、まだまだ検討すべき事柄は多いのですが(母語や母文化について学ぶことはどうするのか等も含め)、何よりもまず学習が成り立つこと、つまり、日本の学校が日本語を母語としない子どもたちにとっても十分な成長発達の場となること、そしてその結果、学力、そして進学進路の選択肢が日本の子と差別なく保障されること、こうしたことすべての保障がなされなければ学習権が守られていると言うことはできません。本号巻頭言を含めこのニューズレターでこれまで紹介してきた様々な取り組みも、すべてこの学習権の実質的な保障を目指すものと言えるでしょう。学校教育の現場が、そしてそれを支える地域社会が、まず足下の“国際化”を実現させることが求められています。すべての子どもの「人格、才能並びに精神的、身体的な能力を、それが本来可能性として持つ範囲いっぱいまで発達させる」こと(「子どもの権利条約」第29条1項(a))、私たちは、これを可能とする日本社会にしていかなければなりません。


 参考:『広辞苑』岩波、『日本大百科全書』小学館、中西晃・佐藤群衛編著(1995)『外国人児童・生徒教育への取り組み』教育出版


第16号掲載

いまさらのキーワード…「ネットワーク

 流行語の感がある「ネットワーク」は今、どのような意味で用いられているのでしょう。

 辞典では網細工、網織物、網状組織、連絡網、電気回路網、放送網。すなわち、点と点が線で縦横に結ばれてできる形で、増殖していくことがイメージできます。はじめは社会学の分野で、点と点、たとえば個人、家族、地域集団などの関係性を調査研究・説明するのに用いてきました。人はネットワークの中に生まれ、ネットワークを多方面に増殖させながら生きていくわけで、人に行動の仕方を決定させたり、維持させたりする背景には何らかのネットワークの影響があると考えられます。このようなネットワークは、人の周りに自然発生的に、あまり意識されずに出来上がるネットワークです。

 しかし近年、女性問題や環境問題などにかかわる自由な社会運動や市民活動が活発になってきて、その運動の核になる集団が情報や意見を交換したり、連帯したりと意識的にネットワークを形成するようになり、私たちも日常的にネットワークということばに触れるようになりました。そして、これらのネットワークの概念には、「点がそれぞれ独自性をもち、互いに束縛せず、しかし、相互に助け合う」という特徴があります。

 日本語教育の分野でも、「ネットワーク」に関心が払われてきました。個人やグループがネットワーク作りに動き出した結果、今では多くの地域に日本語ボランティア・ネットワークが形成されていて、個々に勉強会、連絡会、報告会などと活発に活動しています。

 と同時に、それらのネットワーク同士が互いに連絡を取り合い、合同で勉強会を開いたりする中で、他の分野、例えば医療関係や国際理解教育などのネットワークともネットワーキングしやすくなっています。すなわち、価値観の共有にもとづく、ゆるやかな横のつながりを重視したネットワークを意識的、積極的につくり出そうとしているのがわかります。

 さて、私たちの関わっている中国やサハリンからの帰国者の学習では、学習者の年齢や生活・学習歴が様々であり、居住地域も全国に散らばっていて、学習の内容も生活全般にわたることが特性です。そして、支援者もまた地域、活動分野、年代、立場など様々です。多様な学習者に多様な支援者が関わって、それぞれの場で、試行錯誤し独自の方法論を実践しているのです。行き詰まり、挫折感を覚えることも多いでしょう。そんな時、他の個人やグループが作り上げてきた手法や、蓄積された情報を参考にすることができれば、そこから、また、新しい道を開くことができるのではないでしょうか。

 『同声・同気』が5年前、その創刊号巻頭言で触れているように、『同声・同気』のネットワークで「体験や知識を発信し合うことによって、単に情報の交換を行うだけでなく、そこから新たな価値を生み出していく」結びつきをつくりたいものです。


第13号掲載

エスノグラフィー(ethnography)

 異文化間教育学会の今年の大会の自由研究発表では、64件中9件がエスノグラフィーないしその技法を取り入れたものでした。帰国者支援も含まれる異文化間教育の領域で、「エスノグラフィー」による研究が増えた背景はどこにあるでしょうか。

 まずは「エスノグラフィー」とは。以前から「民族誌」という訳語はありましたが、現在では主として@フィールドワークという方法を使って調べた研究Aその成果として書かれた報告書、という2つの意味で使われています。フィールドワークとは、文化人類学や社会学において、調査者がある地域・社会に入り込んで(多くは住み込んで)その地域や社会を通して何かを把握し理解しようとする営みを指します*。その代表的な技法の一つが「参与観察」です。文字通り「参与しつつ観察する」、つまり対象者と同じ場に身を置いて自らの体験を分析や記述の基礎におく調査法で、実験室の中の対象を研究者が外からこっそり観察するのではなく、調査者と対象との間に何らかの相互作用があることも排除しないものです。この他には、インタビュー項目をあらかじめ決めておかないで対話の中で広げていく「非構造的(あるいは半構造的)インタビュー」という方法もよく用いられます。いずれにしても重要なのは、調査者ができるだけその調査対象の視点から見た世界を了解しようとしている、その立脚点にあります。

 こうした方法が多用されるようになった背景には、「量的調査」(多数の対象者から質問紙によって引き出した回答を統計的に分析する方法)や文献資料のみに基づいた研究では、社会的文化的な事象に迫ることは難しいと考える人が多くなってきたことがあるようです。統計的な分析や数値の記述を主とせずに、少ない事例であっても、それを詳しく分析することによって、社会的文化的あるいは心理学的な問題について、できるだけ多くの要因間の関連性を分析し記述しようとする「質的調査」が重視されるようになりましたが、エスノグラフィーもそうした質的調査の一つにあたります。

 しかし質的調査は、調査者個人の体験をデータ源とするため、当然対象の数は限られますし、調査者の主観になってしまい一般化できる結論を導き出せないとの批判を受けてきました。また、エスノグラフィーと銘打っていても、調査者が自身の立脚点と方法論をよほど意識してかからないと、その成果も自分の日記や雑談の記録から恣意的な結論を導いたもので終わってしまうか、逆に既存の文化人類学的な枠組みに囚われて対象を切り取って終わることになりかねません。さらに、調査者が、なまじその地域・社会に入り込んで一定の信頼関係を得てしまうが故に、そうして得た知見を調査結果として公表することの倫理上の問題も起こります。どの方法も結局万能ではあり得ません。「深いが狭い」と言われる質的調査と「広いが浅い」量的調査、両者を補完的に用いることで初めて、その対象を、そして対象を通して人間社会をよりよく知ることができるのではないでしょうか。


(* 佐藤郁哉(1992)『フィールドワーク−書を持って街へ出よう』(新曜社)がお勧め!)


第12号掲載

アクション・リサーチ(Action research)

 教育現場で起きることがらと格闘していると、いわゆる理論や研究とは距離が出来てしまいがちです。そうはいっても、日々の疑問をなんとか解決してくれるものはないかと、研究から生まれてくる成果に期待するところは小さくありません。また、研究の側からも、現実の課題に対応した生きた研究の必要性が言われています。現場と研究とを結びつける実践的な研究方法として、「アクション・リサーチ」という社会学的手法があります。アクションは「行動」、リサーチは「調査」です。この方法では、研究者が現場の実務者と協力して調査を行い、ある集団が実際にどのように行動しているか観察し、記録し、分析します。そして、調査の結果にもとづいて診断をし、それを現場にフィードバックします。フィードバックを通して、調査の対象となった集団が抱える問題の具体的改善・解決を図ることを目的とする研究が、この「アクション・リサーチ」と言えるでしょう。

 中国帰国者が地域社会の中でどのように生活しているか、その過程でどのようなことが起こっているか、社会学や心理学、言語学等の研究領域で様々な研究が行われています。その一方で、帰国者の生活や学習の支援に実際に携わっている私たちは、その関わりの過程で様々な問題を感じて、それを解決しようと試行錯誤しています。ここで私たちと研究者との良好な協力関係が作られれば、アクション・リサーチによって、問題の所在を明確にでき、改善方法が導かれるでしょう。例えば、帰国者が日本という異文化社会の中でどのように適応していくか、私たちと研究者が協力して調査することで、適応に関する問題点がより明らかになるでしょう。

 また、アクション・リサーチの手法を教師自身が積極的に教育現場に持ち込むことも行われ、教育活動・教室活動の改善を目的として、学習者やクラスを対象に調査研究を行っています。研究者による調査より小規模に行われることが多いのですが、フィードバックは確実で、研究の焦点がはっきりと教育活動の改善に当てられます。これまで、様々な調査に協力して労力を割いても、提示された結果は現場の問題点をなぞるだけで実質的なフィードバックが少なく、調査や研究といったものに不信感を持った、という経験はないでしょうか。とはいえ、私たちがなすべきことは、現場を閉じてしまうことではなく、より主体的なアクション・リサーチを実施し、確実に現場の改善を進めていくことだと思われます。

 そして、アクション・リサーチで大切なことは、どのような調査がだれによって行われるにしても、対象者は対象者である以前に個人として在るのですから、調査の対象となる集団を十分尊重することが必要だということです。その意味では「対象」という言い方には少々違和感を覚えることさえあります。

 実社会で生活し学習を続ける帰国者への支援を考えるとき、今後、このアクション・リサーチの方法は、より必要になってくると思われます。研究者と実務者というように役割を二分して定義すること自体、改めなければならなくなるかもしれません。アクション・リサーチによって、私たち自身が研究者と実務者の両方の視点から日々の実践を見直すこと、教育現場を改善すること、ひいては社会全体へ提言をしていくことが求められています。


第10号掲載

リテラシー(literacy)

 「リテラシー」は、読み書きの能力、識字力を意味する言葉です。最近は、「情報リテラシー」、「コンピューター・リテラシー」というような言葉もよく聞かれますが、こちらの方は、情報を収集・処理・活用できる能力、コンピューターを使いこなすことのできる能力という意味で使われているようです。時代が要求する「新しい読み書きの能力」ということになるのでしょう。この「情報リテラシー」も、中国帰国者にはとても大切な力ですが、ここでは、本来の「リテラシー」、そしてリテラシーの教育である「識字教育」について取り上げてみたいと思います。

 識字教育は、発展途上国の初等教育・成人教育の最重要課題として取り組まれてきた問題ですが、先進工業国においても、労働者階層の人々や、移民、先住民族等マイノリティー(少数民族)に属する人々のリテラシーの欠如が大きな問題として捉えられてきました。こうした世界各国における識字教育実践の歴史の中で、リテラシーの定義も、単なる文字の読み書きの能力という捉え方から、「機能的リテラシー」という概念へと発展していきました。ユネスコはこれを、「所属する集団や社会において必要とされる、読み書きや計算の能力を伴う活動に積極的に関わることができ、そうした能力を自身の発達や社会の発展のために用い続けることができるような力」と定義しています。また、成人教育の理論的指導者であるフレイレは、さらに「批判的リテラシー」という概念を提示して、識字教育の実践は、非識字者が自身の生きている世界を批判的に読み解き改革していこうとする過程を支援するものでなければならないと主張しています。

 日本においても、識字教育は、社会的に不利な立場に置かれている人々(被差別部落や在日韓国・朝鮮の人々など)の人権、特に学習権の保障を目指す社会教育運動として、実践が積み重ねられてきました。しかし近年、この識字の教室に、外国籍住民、国際結婚の配偶者、中国帰国者といった、第二言語として日本語を学ぼうとする人々が圧倒的に増えてきており、識字教育の定義も、読み書き・計算の能力から、話す・聞くを含めたコミュニケーション能力全般、社会参加において技能を発揮する能力の教育へと拡大されてきています。つまり識字教育と日本語教育とが重なってきているのです。

 識字教育では、何のために学ぶのか、学びの主体は誰なのか、学びの実践を通して地域社会はどう変容すべきなのかという視点が重視されてきました。これは、生活支援としての学習支援を目的とする帰国者教育がこれまで取り組んできた問いかけでもあります。二つの分野が互いの蓄積を共有していくためのネットワーク作りが今後の課題と言えるでしょう。


第8号掲載

BICS(伝達言語)とCALP(学習言語)

 中国から帰国した児童・生徒たちは、教師や同級生との日常会話には、じきに困らなくなります。「やはり子どもは覚えるのが早い」のですが、流暢に話せるにもかかわらず、実は教科学習の内容がほとんど理解できていない、従って学力が身に付いていないという子どもが少なくないことが大きな問題となっています。

 私たちは、本を読んだり考えたり、ある事物を抽象化したりするとき、「言葉」を使います。児童生徒は、教科を学びながら言葉の概念を知り、より豊かな世界を築くための言葉を日々獲得していきます。それは、日本語であっても中国語であってもいい訳ですが、自らの言葉─母語(もしくは母語になるべき言葉)─が十分に獲得されないうちに日本に来た児童生徒は、自らの思考・認知のための“拠り所”がないままであると言えるでしょう。教科学習にはその“拠り所”は欠かせないものである訳ですから、学習内容が理解できなくなることは十分目に見えます。日本で成長し、生活の基盤を築き、日本で人生を生きていく児童生徒にとってこれは大きな問題です。人生を切り拓いていくためのひとつの門戸が閉ざされているようなものですから。

 私たちは、会話・伝達能力(BICS)さえ身に付けば言葉はもう十分身に付いたと考えるのではなく、言葉の持つもう一つの側面(CALP)の意味を十分に理解して、彼らに対して息の長い学習支援を続ける必要があると思います。


(注)BICSとは Basic Interpersonal Communicative Skills の略で『日常会話など比較的具体的で、また伝達される内容を理解するのに場面や文脈から多くの手がかりが得られるような言語活動において、必要とされる言語能力の一側面』、CALPは Cognitive/Academic Language Proficiency の略で『抽象的な思考が要求される認知行動と深く関連し、認識力や類推力を伸ばすために必要とされる言語能力の一側面』とされている(Cummins & Swain, 1986)。なお、年少者に対する日本語教育の問題点について知りたい場合には、『日本語教育』86号 岡崎俊雄、『日本語学』1996年2月号 西原鈴子が詳しい。