U オーストラリアの多文化政策
〜カブラマタ・コミュニティ・センターができる背景
オーストラリアにおける移民の増加
オーストラリアは何千年もの間アボリジニと呼ばれる先住民が住んできた島であった。そこへ18世紀末、アングロサクソンおよびケルト系白人が侵攻し、定住した。以来、世界中の様々な国から移民が移住するようになった。
1850年にはゴールドラッシュがあり、多くの中国人が入国してきた。今では中国人が一番大きなコミュニティを持ち、様々な事業を興すなど定着している。歴史をめくると、当時オーストラリアに来る人の多くは自国から排除された人たちであった。例えば、イギリスで犯罪を犯した人たちが送られてきて、生活を築き上げた面もある。第二次世界大戦前は人種差別的な政策がとられていた。
第二次世界大戦後、1946年以降、多くの人々がオーストラリア政府の政策に基づいて移住してきた。世界各地から難民等の数も増えた。紛争等のさまざまなできごとがオーストラリアへ波及したためだが、大きな例では以下のものがある。
○1970年代前半、アレンデ大統領暗殺
○1970年代中頃、南ベトナムの共産化
○1970年代中頃、インドネシアによる東ティモール侵攻
○1970年代〜80年代、東側諸国の人々の亡命
○1990年代、ソマリア、ボスニア紛争
現在、オーストラリアの人口は約1,700万人である。全国平均で40%がオーストラリア外で生まれた人だという統計がある。依然、多くの人々が移民となるべく短期ビザあるいは不法に入国を続けている。現在の移民は、@家族を呼び寄せる、A専門家としての技術移民、B人道的理由(難民)に大きく分けられる。
民間団体による人権保障の提起
白種オーストラリアのイメージがまだ強い現在では、旧政策からの脱皮、新たな国づくりを行っているオーストラリアを想像しにくい。
戦後にとられたのはイギリス人を中心とした同化政策であった。多様な文化から来た人たちに対して、まず英語を使うこと、そして自国で培った価値観を忘れることを促した。1960年から1970年にかけて、専門家や知識人の中から、同化政策には社会的な問題があるという指摘が相次いだ。それが運動として広がる中、政権が労働党に変わり政策自体が見直されることとなった。
1978年のガルバリー・レポート*によれば、多民族で構成されるようになったオーストラリア社会は、人権保障の点からも様々な不都合を呈していた。行政サービスへのアクセスと公平に受ける権利、または、行政サービスを提供する側の不公平が明らかにされたのである。そこで、様々な民間団体が活発な活動を展開した。
現在の政策の必要が認識されるまでには長い民間活動の歴史があったといえる。
大きな役割を果たしたのは、1979年に設立したFECCA−FEDERATION OF ETHNIC COMMUNITIES’ COUNCILS OF AUSTRALIA(オーストラリア民族組織委員会連盟)である。現在もボランティアのnon-party political organization(政党なしの政治的組織)として各民族コミュニティと連邦組織の政策をつなぐ機関として活動している。
もうひとつ大きな役割を果たしている機関は、連邦政府議会によって1986年12月につくられたHUMAN RIGHTS AND EQUAL OPPORTUNITY COMMISSION(人権及び機会均等委員会)である。この機関は10の支部を全国に持つ。人権と機会均等問題について教育、啓発、相談、調停や和解を通じて促進する活動を行っている。
多文化主義の移民政策
1989年、『NATIONAL AGENDA FOR A MULTICULTURAL AUSTRALIA』(多文化主義オーストラリアのためのナショナル・アジェンダ)は、全政党の賛同で打ち出された。国際化という課題に明確な政策を示したものである。
この政策の三つの柱は「SOCIAL JUSTICE(社会正義)」「CULTURAL IDENTITY(民族的アイデンティティーの保持)」「ECNOMIC EFFICIENCY(経済的効率)」である。
「社会正義」とは、文化背景によらず一人ひとりが平等に法によって守られ、社会サービスを受けることが保障されることである。「民族的アイデンティティーの保持」とは、多様な価値観を認め、違いを尊敬することで、新しい自分らしさを発見するプロセスも含んでいる。「経済的効率」とは、一人ひとりが持っている能力、才能、資格が差別されずに活用できるよう平等に保障されていることで、人材資源が経済発展につながるとの認識による。人種差別は経済的に非効率であると言い切る政策である。
現在この政策の下、連邦政府・州政府・地方自治体(市)の連携による施策化、及び行政と民間のパートナーシップによる地域づくりが行われている。
ガルバリー・レポート*を契機に、移民への援助機関として移民援助センターがつくられ、地域と行政サービスをつなぐ活動と、各民族コミュニティの組織化を図るという共生への援助が行われるようになった。
この冊子で紹介しているコミュニティ・センターは、以上の政策を受けたものである。