ここ10数年の自治体教育政策は、学校教育や社会教育といった従来の教育分野を包括した、生涯学習という視点ですすめられるようになった。生涯学習を教育の機会均等という視点で考えるとき、全ての市民に同じように行政サービスを提供するものととらえる考え方が多数派である。
しかし福祉政策と同様に、社会的にハンディキャップを持った、何らかの形で学習を受ける権利が保障されていない市民にたいし、厚いサービスを提供することを通して教育の機会均等を実現するという考え方が、自治体の生涯学習政策では大事であると考えている。
この場合社会的なハンディキャップを持つ市民とは、障害者、子ども、高齢者、女性などのほかに在日外国人や中国からの帰国者も当然その範疇にある。また学習の当事者は、そういう立場の市民だけでなく一般の市民も含んでいる。
つまり一般の市民もそういう社会的にハンディキャップを持つ市民との関わりを通して、地域や社会に必要なことを学んでいくという意義がある。
1985年にユネスコが行った「学習権宣言」は、学習することを誰もが行使できるあたりまえの権利=学習権としてとらえ、国や権力を持つ側の立場が、国民にそういう学習権を保障する義務を持つ、という考え方に基づいているが、今回の飯田市における中国帰国者支援のための一連の取り組みも、そういう学習権保障とか人権教育の視点で取り組んできたといえる。
中国帰国者定着促進センターとの縁は、戦後50年を記念し、1995年飯田市が主催した「平和フォーラム:飯田発地球市民への道」でセンター教務課長の小林悦夫さんをパネラーにお願いしたことが始まりであった。
飯田市やその周辺は、多くの「満蒙」開拓団員を送り出した地域であり、現在も残留孤児婦人の帰国や、その呼び寄せ家族という立場で多くが人たちがこの地に暮らしており、このことが地域に様々な課題を投げかけている。
一方飯田市は1979年に非核平和都市宣言を行い、その宣言を具現化する取り組みとして飯田市公民館が担当し、1981年から平和学習を進めてきた。1995年に開催された平和フォーラムに至る何年かは、満蒙開拓少年義勇軍を題材にした「蒼い記憶」、残留孤児がどう育てられたかを描いた「乳泉村の子」など映画を中心としながら、「満蒙」開拓や中国残留孤児婦人の問題についての学習を進めていた。そういう平和学習の流れの中で開いた平和フォーラムは、戦後50年を出発点として平和を考えるという視点から、中国引揚者を中心として在日外国人など、異なる文化の中で暮らしてきた人たちとの共生をテーマとして開催した。
平和フォーラムを開催するに至る過程や、フォーラムでの論議を通して、多様な価値観を持つ人同士が共に支え合っていくことのできる地域をつくることが、グローバル化した世界の中で平和な社会を維持していくための前提であり、環境問題など地球的な規模で迎えている危機を現実的に解決していく鍵でもあるという視点を学ぶことができた。
平和フォーラムを進めるために、呼び寄せ家族の立場で当時1年ほど前に日本にやってきたYさんに聞き取り調査をした。
飯田には日本語学習を中心にして、外国から来た人たちと、市民レベルの交流を進めている「ハンドインハンド和楽」というグループがある。グループの中心である吉澤裕美子さんが、Yさんの家族との交流をしていた関係から彼女に大変信頼されており、また彼女自身がいろいろな悩みを抱えているということを知っていたことから、吉澤さんの案内で彼女の家を訪問した。
ところが、私がYさんに「何か悩みがないか」と質問しても、彼女は「ない」と応えるだけであったにも関わらず、彼女は涙していた。つまり悩みはあるのであるが私には「いわない」ということである。彼女には中国人の夫と小学校低学年の男の子が2人いたのであるが、特に子どもの学校生活の日本と中国の間のギャップとか、勤め先での同僚との関係など、いろいろなとまどいや悩みを抱えていることは吉澤さんから事前に聞いていた。しかし、そういう悩みをを他者に訴えることが逆に「彼女は生意気だ」としていじめにつながるような痛い経験を持っていたようである。
ハンドインハンド和楽を中心とした周囲の人たちとの関わりを通して、Yさんは次第に社会的な活動を始めるのであるが、当時は仕事以外はほとんど家に閉じこもり、子どもの学校行事にも全く関わらないという閉塞的な生活を送っていたようである。そういうYさんの暮らしぶりを通して異なる文化で暮らしてきた人たちが日本で暮らすことの大変さを垣間見る機会であった。
また、吉澤さんとYさんとの間には「我們是朋友(ウォーメンシーパンヨウ)」という合言葉がある。これは中国語で「私たちは友だち同士」という意味で、異なる文化や価値観を持っていても友人関係を結んでいくことの可能性を感じる言葉である。そして、そういう関係を結ぶことのできる市民が増えることで、Yさんのような立場の人たちにとっても暮らしやすい場所になるとともに、そういう開かれた関係を結ぶことができることは、私たち自身が地球市民として平和的共存のできる存在として一歩進むための大変良い機会になるのではないかということを強く感じた。
平和フォーラムがきっかけとなり、1996年に飯田市公民館の事業として「異文化交流セミナー」がはじまった。当時既に中国帰国者や在日外国人は1700人ほど市内に在住しており、私たちが彼らの文化を学んでいくことを目的とした講座である。この講座は50人を越える受講者を得、中国、フィリピン、ブラジル、タイなどの料理や音楽を通し、楽しみながらの交流ができ、また中には母国から材料や道具を取り寄せて講座に備えるほどの熱を入れてくれた講師もあったなど、成果も大きかった。
しかしこの講座を通して課題となったのは、講師が中国帰国者や在日外国人で受講者が日本人という一方通行の関係となってしまうことと、彼らにとっては講師として登場する1回の講座のみの付き合いとなり、継続した関係を結ぶことができないということである。
講座の総括を行う中で、中国帰国者や在日外国人がより主体的継続的に関わることのできる講座に変えていこうと方向づけをし、彼らの参加の必要を感じる講座として、日本語学習を核とした内容に変えていくことになった。
ちょうど時期を同じくして、1997年3月に平和学習の一環で中国帰国者定着促進センターで日本語学習を進める研修生を訪ねたおり、センターが進めようとしている、中国帰国者の定着地における日本語学習のモデル地区として取り組んでみないかという打診があった。
1997年7月に始まった「わいわいサロン」は中国帰国者定着促進センターの支援を得た飯田市としての最初の事業である。「わいわいサロン」は毎週木曜日の午前中、公民館の一室を開放し、中国帰国者や在日外国人と日本人が楽しく交流しながら日本語を学び、また相手の文化を学ぶ講座である。この講座の登録者は約40人でそのうち半分が日本人である。毎週のサロンへの参加者は5人から10人であるが、お国自慢の料理講習会、日本の伝統食の講習会、お琴や三味線など日本文化を楽しむ会など、節目に行う催しは大勢の参加者で賑わっている。
中国帰国者のうち講座常連なのはTさんで、残留婦人であった母親とともに参加しているが、最も熱心な生徒である。また帰国当時は車いす生活であった母親であるが、講座への参加が大変刺激となり、講座開設1年半ほど経過した現在では自力で歩行できるまで改善し、そのことがTさんがこの講座を継続する強い動機にも結びついているようである。
1997年7月、市の同和対策を担当する保健厚生課が中心となり、女性室、生涯学習課の3者で人権に関する市民の意識調査を実施した。いわゆる同和問題についての調査が基本ではあったが、せっかくの機会に人権に関わる調査に広げて市民の意識をとらえてみたいということから、女性室はちょうど作成途中であった飯田市の第2次女性行動計画の基礎データとして活用するために主に女性問題意識を、生涯学習課は在日外国人問題を中心に設問をつくった。
1000人に発送し、約7割という高い回答数を得たこの調査は、在日外国人問題にたいしても飯田市民が高い関心を持ち、彼らの困難な状況に対する支援の意志を持つ市民が多く存在することが分かり、大変成果があった。
たとえば「外国の人が飯田について困っているときに助けてあげたい」という質問にたいして33.6%、また「外国の人に日本語を教えたい」という質問には9.9%の市民が、それぞれ「はい」と答えており、今後の支援の取り組みに対する市民の参画の可能性を期待できる数字であった。
1996年の秋、残留孤児であったSさんから、竜丘公民館長宛に手紙が送られた。国策で「満蒙」開拓に参加し、大変な辛酸をなめた自分たちのような帰国者が、帰国後の日本において言葉の壁に苦労している状況の改善を、公的な教育機関である公民館にもっと取り組んでほしいという訴えの内容であった。
竜丘公民館としても何とかこの手紙に応えようということから、センターの支援を受けながら日本語教室の開設に向けて取り組み始めた。飯田市の公民館は公立民営という理念に則り、多くの地域住民が専門委員という立場で公民館活動の企画運営に参画しているのであるが、竜丘公民館では文化委員会という専門委員会がこの教室開設に取り組むこととなった。
竜丘公民館の文化委員会は冬場に「竜丘市民大学講座」を企画運営し、そのときどきの課題を学習していたのであるが、1995年のこの講座から、「国際交流」をテーマとした講座を設けていたことも、日本語教室開設の背景にはあった。
1998年2月に竜丘公民館主催で「中国帰国者のことを考えてみる集い」がセンターの小林さんを講師に行われ、Sさんの手紙にあるような講座開設の歴史的背景と、私たちが教えるとか救うという視点だけではなく、むしろ私たちが学んでいこうという視点を大事にしていくことを確認しあった。
この会に中国帰国者を代表して参加したIさんは、竜丘市民大学講座の国際交流の講座にも参加しており、竜丘公民館の文化委員とは旧知の仲であったのだが、講座で交流したことをきっかけとして居住地域のとりまとめ役である組合長に立候補し、周りの人たちの支援に助けられながらその職を見事に全うしていた。そういうIさんと文化委員との間のつながりや信頼関係ができたことが竜丘の取り組みにとって大きな力となった。
続いて竜丘公民館では公民館長や主事、文化委員がIさんの通訳兼案内で竜丘在住の中国帰国者の家庭を個別に訪問しながら、帰国者の現状や課題についての調査活動を行った。調査を通じて得たことは、彼らにとっての必要は単なる日本語の習得ではなく、周囲の日本人との垣根を越えた交流にあるということであった。
再び1998年7月センターから小林さんと田中さんを招いた打ち合わせ会の中で、日本語教室ではなく、言葉のコミュニケーションはできなくても一つの事業をともに作り上げることを通して、その活動自身が日本語学習を含めた相互の学習となり、一層コミュニケーションを深めるために言葉を覚えたいという動機付けとなるような取り組みを進めていくこととなった。センターの小林さんは、これを協働学習と表現し、新しい可能性を持った取り組みとしてとらえてくれた。
好友会(ハオユウカイ)と名付けられたこの組織は、1998年12月13日に初めての事業として料理文化交流会を開催し、60人(うち中国帰国者30人)の参加でにぎやかに行われた。
1997年秋、山本在住の残留婦人Oさんから所沢のセンターに手紙が送られた。山本地区にある市営と県営の団地には、多くの中国帰国者が居住しているのであるが、それぞれの帰国者が生き生きと暮らしていない、何とか励みになるような支援をしてもらえないだろうかという内容である。
センターから飯田市にこの手紙の件が報告され、たまたま山本の隣の伊賀良地区で民生児童委員の立場で「輪話遊(ワーワーユウ)」という、中国帰国者と日本人の親子の交流サークルをつくっていた牛山満智子さんに相談したところ、牛山さんが中心となってOさんの呼びかけに応える取り組みを始めることとなった。
牛山さんは伊賀良地区の民生児童委員として地域の子どもたちと様々な関わりを持っており、地域の子どもや親、学校から厚く信頼されている人物である。「輪話遊」も、もともとは伊賀良小学校に転入した中国帰国者の子どもたちが、言葉が通じないストレスを暴力的な行為で表してしまうことを心配した学校側が、牛山さんに相談を持ちかけたことをきっかけとして生まれたグループである。活動の拠点である伊賀良児童館での関わりを通して、子どもたちの友だちづくりも進みつつあるが、登下校時などの様子を見ると、学校外ではまだまだ孤立しているようである。しかし子どもたちはそんな中でも次第に日本語を習得し、日本の習慣を身体で覚えていくのであるが、親たちは子どもほどの順応力がないことから日本語や日本の習慣が子どもほどにままならず、そのことを子どもが恥じるという事態も生まれている。
山本地区の取り組みははじめ1998年9月、牛山さんと私がOさんの自宅に訪問し、Oさんとの話の中から早速10月11日に山本在住の中国帰国者との顔合わせを行うこととなった。中心となるのは牛山さんに加えて、かつてマレーシアのペナンで日本人学校の教師をしていた経験もある野牧さんである。
センターからは山本の取り組みの方法として、通信教育とスクーリングによる学習方法を提示してくれた。通信教育はセンターが現在開発中の学習教材で、基本的には自宅で学習者自身が教材を使って日本語学習を進め、月に1回から2回スクーリングという形で学習者と日本人スタッフが顔を合わせ、マンツーマンか多くて1対3くらいの範囲で、日本語でのコミュニケーションをとりながら、学習者自身が日本語学習の成果を試すという方法で進めることになった。
最初の顔合わせにはセンターから小林さんも参加し、Oさんの娘さんが私たちの訪問の趣旨や、帰国者の希望を通訳してくれた。参加者は約20人、10代から30代までの男女で、乳幼児を抱えた女性が多いほか、夫婦での参加もあった。通信教育の趣旨を説明し、趣旨に賛同した11人が参加を希望したが、当日の参加者の高い学習意欲や、そういう学習意欲が熱い打ちに取り組みをはじめてしまおうということから、翌週には日本語理解度の調査を行い、10月中には最初のテキストがセンターから本人の元に届き日本語通信教育は始まった。
スクーリング初日の11月8日は、牛山さんと野牧さんの他、牛山さんの友人2人、飯田市公民館のわいわいサロンを担当している竹内指導員、山本公民館の福沢主事が参加し、概ね1対2の関係で学習が進められた。学習者は笑顔で、学習にも非常に意欲的であり、日本人スタッフも日本語について改めて認識が深まるなど成果のある初回であった。
12月20日に行われた第2回には、地元の山本地区で絵本の読み聞かせの活動をすすめているメンバーが何人か参加し、スクーリングのあとには実際に絵本を読んでくれたが、楽しく有用な日本語学習の時間であった。今後もできるだけ地元住民の参加を図りながら、中国帰国者が地域の中で交流していく形につなげていきたい。
牛山さんの伊賀良地区での取り組みとも共通しているが、帰国者の将来にわたる家族関係を考えると、子どもたちがどんどん日本語や日本の文化を習得しながら日本語が母語となり、逆に中国語をほとんど話せなくなることから、親子のコミュニケーションギャップが深まることが心配される。
しかしそういう将来に渡る親子の関係を危機感を持って意識することがあれば、それが日本語習得の強い動機付けともなり、今後の展開の期待につながっていくのではないだろうか。
それぞれの飯田での取り組みは、専門的に日本語を教える指導者が学習者に対して教育を施していくという方式ではない。そういう方式の場合、学習の当事者は中国帰国者だけではなく、日本人支援者の側でもある。
山本地区の通信教育を始めるきっかけとなった残留婦人のOさんは、日本は言葉のいらない社会でそういう社会はおかしいのではないかという話をしてくれた。つまり、買い物をするとき、中国では必要な物を必要なだけ買う計り売りが基本であることから、店の人と客が会話をしなければ商品を買うことができないのにたいし、日本ではスーパーなどで全て袋詰めにされて値付けされた商品を自分で選びレジでの支払まで一言も言葉を発しなくても済むことにたいする違和感である。過剰包装など日本の消費社会の在り方に対する問いかけが、環境問題が強く意識されるようになった近年私たちの間でなされるようになってきたが、異なる文化で暮らしてきた経験を持つOさんのような存在が、そういう視点を私たちに改めて教えてくれたのである。
わいわいサロンに参加するフィリピン出身で日本人男性と結婚したNさんは、日本人男性は仕事場や地域での友人関係を大切にしすぎ、いつも飲んで帰ってくる。なぜ家族との関係を第一に大切にしないのかということを話してくれた。彼女は子育ての在り方についても、私たちの日頃づかない視点をよく私たちに教えてくれる存在でもある。
異なる文化や価値観を持つ人との交流は、私たちが日頃気づかない私たち自身の暮らしの在り方について改めて考える機会を与えてくれるという意味でも、大変貴重な学習機会であり、中国帰国者や在日外国人の急増という現在の状況も、そういう点で考えると大変大きなチャンスを私たちに与えてくれているととらえることができる。
次に視点を変えて、中国帰国者や在日外国人自身の問題として考えてみたい。彼らが飯田という地でどのようにしたら幸せに暮らしていくことができるのだろうか。
1997年秋から日本福祉大学とフィリピン大学の共同研究で、在日フィリピン人の生活課題研究のために飯田市が調査地として選ばれ、教育委員会が窓口となってアンケート調査やヒアリング調査が行われている。研究の目的はフィリピン人の生活課題を整理することを通して、行政の施策として求められることや、市民の支援活動のあり方、在日フィリピン人自身のこれからの取り組みなどに一定の方向を提案していくことにある。
市内には外国人登録をしているフィリピン出身者が350人おり、そのうち約80人ほどが日本人男性の配偶者として暮らしている。
調査の中から彼らの中の多くが、私たちが予想していた以上に生存にまで関わる深刻な問題を多く抱えていることが見えてきた。入国管理法などの法律上の判断では救うことのできない当事者も多く存在しているが、実際に地域住民として私たちの日常生活に広く関わっている実態から、法解釈によらない自治体としての一歩踏み込んだ判断も求められているとともに、自治体政策だけではとうていケアできない部分に関わる市民の支援活動もいっそう求められていることが見えてきた。
しかしそれ以上に求められているのは、彼ら自身が自分たちの手で状況を改善していくという自立の志を高めたり運動を広めていくことである。日本人が支援者で、彼らは常に助けられる存在である限り、支援者の力の動向に左右されるきわめて不安定な状況を抜け出すことができないのである。彼らはすでにUFC(United Filipino Community)という助け合いのネットワークを組織し、地元のカソリック教会を拠点に活動しているが、そういう活動が日本人の支援者の活動といっそう連携しながら自らの力を高めていくことがもっとも大事な点ではないだろうか。
フィリピン人のNさんは、結婚先の家族関係などで精神的肉体的に大変落ち込んでいたのであるが、もともと母国であるフィリピンに対する強い愛国心と誇りを持った女性であった。彼女が元気を取り戻す一助にでもなればという気持ちから、今回の調査活動に際してフィリピン出身者への連絡や、通信のタガログ語訳などの仕事に関わってもらったのであるが、実際に彼女はそういう活動を通して次第に元気を取り戻しつつある。
地域づくりとか社会教育の視点としても、他者に依存せず自らの力で自分や地域の問題を解決していこうという姿勢が大切であるといわれているが、在日外国人や中国帰国者の問題についても、彼ら自身の自立の志がどのように育っていくかが、これから大切になっていくと考えている。
阪神淡路大震災を契機として、NPOと総称される営利を目的としない、市民による社会参画の活動が広がりつつある。何年か前ロサンジェルスでも大きな地震が起こったが、そのときの復興は阪神大震災と比べて非常に迅速だったという話をしてくれる人がいた。アメリカではNPOがすでに社会の大きな位置を占めており、復興の早さはそのことも大きな背景ではあったと思うが、それ以上の違いは異質といわれる多様な文化や価値観を持つ人たちが共存する社会であったことが大きかったということである。多様な文化や価値観を持つ人同士が共存共生する社会は、何か事が起こったときに対処できる強さのある社会であるという。そういう意味では異質との共生は地球的な危機といわれる現代を乗り切る大きな鍵ともいえるのではないだろうか。
多くの中国帰国者や在日外国人がこの地に暮らすことをチャンスととらえ、互いの違いを楽しみながら認めあえる関係づくりを行うような活動を、公民館のような地域に密着した社会教育施設で進めるような取り組みを、これからも進めていきたいと思うところである。
最後にこういう取り組みを実際に進める上で、何度となく飯田に足を運んでいただき、大変多くの示唆を与えてくれた中国帰国者定着促進センターの小林さんや田中さんにたいしお礼を申し上げるとともに、今後ともいろいろな形での支援を期待しながら、いいだの取り組みの経過報告に代えさせていただきたい。
1998.12.12 飯田市教育委員会生涯学習課 木下巨一