はじめに

 たっちゃん ともちゃん さんちゃん それから豊君
 新京敷島地区難民収容所で仲良く助けあって、共に生活したみんな!
あれからもう四十年すぎてしまった。わたしは、君たちのことを昨日の事ように、まぶたに浮かぶ。私の心の中に君たちの姿がこれからも生き続けるでしょう。
 クリクリッとした大きなかわいい目をしたともちゃん 少しドモルが、なかなかきかん坊で心のやさしいさんちゃん。みんな精一杯、生きようとした。しかし、寒さと飢えと病気には、勝てなかった。つぎからつぎへと春を待たず死んでいった。
 気がついて見ると、私だけが生き残っていた。
 なまじっか生き残っていたために、なにかうしろめたい感じをこの四十年間常に受けていた。
 また君たちに大きな責任をおわされてきたような気がする。
 私に与えられた責任を果たすためには、君たちの最後の悲しい思いを文に綴り、一人でも多くの人たちに読んでもらうことだと考えました。
 ところが私にとって文を綴るということは、極めて不得手なのです。また、原稿にむかうと君たちのある日の姿が生き生きと眼前によみがえってくる。
 井上正君が死を見つめる床の中で、「ねえ増田君、生があるから死があるんだねえ。そうだねえ そうだねえ 死というものは、誰にも必ずくるもんだからねえ」
死というものを自分なりに無理に納得しようとした、正君。
「この のら犬ヨウ子と一緒だね」ヒョロヒョロとやせほそった犬にほほずりした姿。
 このように思い出すだけで、ほんとうに生きているように君たちが私に働きかけてくる。
 原稿が涙でかすんでくる。文が下手でも、絵がまずくとも私は、君たちのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思い一生懸命書いたつもりだ。

 それだけは、私を信じてほしい。そして、四十年間仕事にかこつけて、君たちのために何もできなかったことをどうか許してください。



 昭和二十年八月九日午前零時
 満州国境(現・中国東北地区)に展開した、ソ連極東軍は、総員1557725人・大砲26137門・戦車、自走砲5556車・飛行機2446機、満州へ進撃を開始した。
 精鋭といわれた関東軍は、フィリッピン・サイパン・硫黄島・沖縄などの南方方面に転用され、玉砕。また戦局悪化と共に日本防衛のために九州・本州へ配備された。

 このような状態から関東軍首脳は、日ソ開戦した場合、京図線(新京−図門)より南、連京線(新京−大連)から東を確保して持久戦にもちこみ、日本軍全般の作戦を有利に導こうとしたものである。
 つまり、全満州の四分の三を捨て、新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角地帯を防衛しようとした。特に通化を中心とする東辺地帯を確保する作戦であった。


上の満州全図の太い実線は、昭和20年
8月15日までのソ連軍進出した地点・丸
の囲いは日本軍陣地]
(永久陣地で8月下旬まで善戦し全滅)

 全満蒙開拓団や一般在満者など半数以上が所在する国境沿いの北部、東部地方は、ソ連参戦の約二ヶ月前に、開戦のあかつきには放棄と日本軍首脳部によって決められていたのである。しかもソ連参戦の時期はいろいろ情報機関によって分析されていたが、早ければ八月〜九月ごろと予想していたのである。


 では、なぜ関東軍は国境地帯の開拓民、一般在満者の安全を計る措置をとらなかったのか。
 国境地帯の日本人が大量に移動すれば、全満に不安動揺が起こり、それによってソ連の参戦の時期が早まりはしないかという恐れを抱いたためである。
 つまり戦略的に開拓民・一般人の放棄を決定したのである。それによって、ソ連参戦によって開拓民・一般人の中に多くの悲劇的な出来事が起こったのである。


 関東軍が開拓民・一般人を放棄をした、ということについて、終戦後多くの日本人たちに非難された。
 しかし、どの国の軍隊でも一端戦争が起こると、あくまでも戦争の作戦が優先されるのである。
 軍隊は、国土を守ることができても私たちの一番大切な生命・財産は守ることは、二のつぎなのである。
 古来から今までの戦史を見ても明らかなことである。
 ここで、満州の開拓団の集団自決として、有名になった麻山事件(ハタホ開拓団)について簡単にふれておく。
 昭和二十年当時、開拓団では男子団員のほとんど根こそぎ動員によって召集され、残っていた者は病弱者か老幼婦女子であった。そのような情況化、日ソ開戦直後の八月九日満州東安省鶏ねい県庁からハタホ開拓団本部に避難命令が発せられたがすでに空襲により、混乱の極に達し、鉄道は遮断されていたので開拓団員約一千名は荷馬車で牡丹江に向け徹夜で行軍、十二日ごろ麻山に達したとき、満州治安軍(日本軍に協力していた中国軍)の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊が進撃しつつあった。
 そこで進退きわまる情況になった団長貝沼洋二氏(東京都出身)は最悪の事態に陥ったと推定した。
 団長は団員の壮年男子十数名と協議し、○婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ。と同日午後四時半ごろから数時間にわたって、男子十数名が銃剣をもって女・子供四百数十名を突き殺した。
 男子団員はこの後、ソ連軍陣地に切り込むことになっていたが果たさず、間もなく終戦を迎え、一部の人々は生きて祖国の土を踏むことになったのである。
 男たちが悶々と終戦の時を過ごしたことは言うまでもない。
 このような麻山事件と同じようなことは随所におこっているのである。即ちソビエト侵攻時だけでも、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指に及び、一部落全滅や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数百団を数え、犠牲者の数は一万名に達している。
 また一般在満者を含めると、終戦までに三万人を超えた犠牲者がでたといわれている。そして、百二十万に余る邦人は都・辺境の部落で冬を越すことになったが、仕事がなく、金がない百万の「難民」は、寒さと飢えと病気(主として発疹チブス)で死亡者続出し、昭和二十一年の春まで、実に十三万五千名の犠牲者を出すことになったのである。

 この手記は、私が苦難のすえやっと新京敷島地区難民収容所(元 敷島地区日本人国民学校)にたどりついた昭和二十年九月下旬から翌年の三月までの実際の出来事を綴ったものである。
 色々のことがあったが、特に印象の深い子供たちの三つの出来事を選びまとめてみました。