4.文化大革命の時

1966年から中国は全面に文化大革命運動が起こりましたとても激しい

情況でした。私は中国語文法と哲学と新聞ばかり勉強していた。他の書物

は禁止されました。1972年日中国交正常化してから中国では北京日本語放送

もあるし、日本語のいろんな本も出版されました。私は祖国の日本語が分からない

のは恥ずかしいことだと思って独学がしたかったのです。しかしその時は軍事機関に

従事している人は、海外や(ホンコンの親戚でも)と文通さえも一切禁止されて私

がただ日本語を独学することも会を開いて私を批判しました。その時、私は

すぐ哲学理論をよく使って武官らに真っ向から対決して闘争しました。その

後、私は日本語をこっそり勉強しました。しばらくしてこの部隊の上司が分っ

て28軍の軍長康林様が私のことを取り上げてくれて軍部の開議で理髪の

工員がただ新聞だけよく勉強して武官よりもよいと評価と賞状を受けました。その

後は康林様が北京軍区へ転任する時に福州軍区司令官皮定均様と一緒に

私の理髪店に来て話してくれました。また、これからもお互い文通すると決めました。

その後康林様は北京軍区副司令官になって、すぐ私の日本語の独学を指示

してお手紙と日本版の毛沢東選集第五巻をくれました。29軍の軍長楊清様も時

々私の活動を支持してくれました。それから私はおおっぴらに暇な時に日本語を独

学できるようになりました。一方浅草小学校を通じてついに荒田建一さんと連絡

しました。荒田さんは私の帰国申請書を出して(1975年)くれました。しかし、その時は

当局の規定で軍事機関に従事している非軍人の工員は出国申請は出来ませんでした。

結局親族による帰国ではないとの理由で、日本側での許可が降りず、当時

私は帰国に絶望的になることもありました。しかし、人間は運命を自分の手に握って、ど

んな逆境にあっても自分は何人であるか、誰の子孫であるかを忘れず祖国はどこに

あるのか国家の興亡については一人一人責任があり、誰でも死ぬのだし、死ぬことは

怖くはありませんでした。しかし死んだ後、私の子孫に私の祖国と祖先を伝え

ていきたいと思ったのです。当時、私は一心に日本語を独学したり、唯一の希

望があることと言えば子供をよく教育して、もし自分の念願が実現できないなら

子孫が完遂してくれると思いました。しかしその時はどこでも文化大革命運

動で全部の学校も停学革命し、いろんな学校の先生方はいわゆる「資本

主義の反動的な学術者」と言われて街頭デモをしていました。そのような動

乱社会には、私は子供の前途を考えて家で全面的によく教育してやったり

私の自分の歴史を書いて教育したり、また勉強の方法を一緒に相談してや

りました。ついに1977年中国は回復開学で考試制度が再開されました。

1978年に居在地の長楽県で21名の大学に合格した学生の中には私の息子

(1962年10月生れ)陳桂新満15才が第一位の成績で入学しました。
その文化大革命運動の中にいわゆる階級闘争の中でもし康林様が助

けてくれなかったら、私が負けたら一家はすぐに軍用理髪店をやめて民間の

理髪店になっていたでしょう。一家の生活は非常に苦しくなり私たち夫婦も

定年になったら年金がもらえないし、何十年もの軍人に理髪奉仕は皆水の

泡になったと悩みました。これは特に危ないことでした。今、思い出すと本当に

怖い事でした。ついに私たち夫婦は38年間一筋に勤めて定年になって

年金をもらいました。これは皆康林様や楊清様などたくさんの偉い上司の武官達のおかげでした。

藤本さんの歩いた地方の地図

 

5.1989年以後

1989年3月息子が自費でスウェーデンへ行って科学研究の仕事をしたり、暇

な時に博士の研究をしたりして翌年から時々ヨローパ共同体国際科学会議に

出席しました。1994年5月29日初めて上海国際科学会議に出席しました。

1994年11月25日ついに博士号を取得しました。一家四人はスウェーデン国籍を

取得しました。1998年10月13日から16日までついに母の出生地新潟国際

科学会議があり息子はスウェーデン代表として出席しました。
私は1994年11月から金子貴一さんが初めて代表として東京ボランティヤ福

建省残留邦人帰国の支援の会でいろいろ助けてくださって遂に1998年10月

15日永住帰国しました。同月18日私たち父子は埼玉県所沢市中国帰国者

定着促進センターで出会いました。幾年来、私と家族は皆元気で再会しました。

世間の人びとがよく助けてくださったのと、天国にいる釈迦牟尼仏様が私たち

を助けてくれたことは忘れられないと思いました。
例えば1949年2月の春節の日(私は徐州市から未解放の福建省へ帰

った時)私は当地の有名な福清県石竹山の中腹で観音様寺に参って釈迦牟

尼仏様に参拝して下半世は無事に暮らせるようお願いしました。それから今ま

でそんな複雑な社会で無事に過して暮らしてきました。
また1975年5月から東京でただ一人のよい知人荒田建一さんが私に帰国

申請書を送ってくれました。私も中国のパスポートをもらっていましたので日本を

訪問することは可能でした。しかしその時は石竹山の観音様寺に参って釈迦牟尼

仏様に参拝して日本へ帰れるかどうかと聞きました。その夜に仏寺で泊めて

もらいましたが寝てから仏様は夢の中に出て来た日本へ帰らないと答え

てくれました。その時は本当に日本へ帰られませんでした。
1994年11月から1995年12月まで私は東京ボランティヤ(福建省残留邦人帰国

促進を支援する会の代表金子貴一さんや浅草小学校の校長先生や荒田建

一さんなどと連絡がとりたくて毎月手紙一枚ずつを出しました。しかし、日本から一枚

の返事も返って来ませんでした。そのことでたく后安村の大勢の親戚や友達の笑い草

になりました。されで私はもう一度石竹山へ参って観音様寺の釈迦牟尼仏様

に参拝して今度は日本へ帰れるかどうかと夢のお告げをお願いしました。すると

その夜、私は仏寺で泊って寝ている時に突然夢の中に仏様が現われて私とあ

る女性が二人今度日本へ帰れると答えてくれました。またお御籤を引くと「黄

金を売って書物を買って読む、他人は私を笑って本の虫だと言う。ある日皇宮に招

かれて、前に売った黄金は万倍余り戻る」と釈迦牟尼仏様の教えが書かれて

ありました。次の月(1996年1月)に金子貴一さんや浅草小学校の教頭先生鈴木修さん

や荒田建一さんや福田貴司さんなど6人の方々からの返事の手紙が届きました。

金子貴一さんのお手紙によると「前にいただいたお手紙は中国語で書かれてあ

り、私たちは読めませんでしたので返事ができませんでしたすみません。今ボランティヤで

決まりました、資料によると福建省残留邦人第一回で一時帰国者の中には相美

さんの名前がある」と書かれていました。平成9年(1997年)4月11日に私は楊玉

宗(日本名松井 86才)と一緒に一時帰国しました東京新宿スターホテル908号室

に泊りました。東京さくら共同法律事務所を通じて厚生省に日本国籍の確認

をしていただきました。4月27日に中国へ帰りました。そして平成十年10月15日

12時50分に永住帰国のため東京成田国際空港に降り立ちました。

 

6.祖国へ帰る

私は何十年前から釈迦牟尼仏様の教えをいただいていますが此の度仏様

のお導きどうり本当に天霊が私たちの前に現れました。それで私たち親

子はそれぞれ中国とスウェーデンで毎日に釈迦牟尼仏様の経文を唱えて参拝し

ています。先日(平成10年10月18日)長男陳佳新がスウェーデンから来日した機

会にから私たち親子は一緒にこちらの西国分寺や東京仏光山寺など仏寺へ参

って釈迦牟尼仏様に参拝して感謝いたしました。
この度、半世紀以上待ち望んでいた帰国が実現しましたが念願が叶うのは容易

ではありませんでした。それで今私は口ばかりで感謝するだけでは足らないぐらい

で実際に行動することを決心しました。
私は近年来、中国にいる時には毎朝3時ごろ起き皆さんを起こさないよう

に洗面所で電気をつけて日本語を独学しました。頭脳をよく休ませるために

毎晩9時になったらに寝ました。いわゆる早寝早起きは三文の得です。
今度は日本に帰ってから帰国者定着促進センター宿棟の211号室で毎朝2

時半起きて(この時頭脳明晰ではっきりしているので大事なことは効果がよく現

れます。)家内を起こさないように洗面所で歯を磨き顔を洗ってから、座敷で始め

て釈迦牟尼仏様の経文を108回以上に唱えてから日本語をすらすら読み

ます。もし大事な手紙などがあったら前の晩に手紙を早々に書いて、翌朝それ

を清書して(例えば11月には50封筒の長手紙と12月には70枚年賀状、これらは

皆東京ボランティヤさんに)郵送します。毎晩9時まで日本語の基礎文法の

読み書きをよく勉強して寝ます。勉強している時に眠たくなったら冷たい水

で頭を洗うとすぐ眠気が去ります。
世の中には時間が第一位に大切なものであることは特に年取た人は前夜半

に睡眠の効果がよく現われるけれども後夜半はあまりよく寝られないのです。

そのような時には掛け布団をかけて横になって夜に明けるまで待っているのはと

ても勿体ないと思います。もし寝られないなら、すぐ起きて日本語や哲学を

勉強する方がよいのです。ここの帰国者定着促進センターにいる時間はとても

大切で貴重だと思います。
勿論、勉強することは頭脳を働かせることであり、これは体力を働かせ

ることと同じように苦労なことです。これは誰でも分かることです。特に厳寒

の冬には暖房がない時或はこわれた時に勉強するかしないか、これは意志

が強いか弱いかの問題です。
ある人は私に「勉強することはいくらの価値があるのですか」と問い

かけました。私は「知識の価値は無限の力がある」と答えました。
私は昭和13年2月(11才)の時に荒田建一さん(13才)に手紙を初めて出

して帰国したいと泪を流て訴えました。それから今まで60年以上も苦しく待っ

ていました。近年もし東京ボランティア「中国福建省残留邦人の帰国を支援

する会」の代表として金子貴一様などたくさんの同胞が関心を寄せてくれな

かったら私は異国で死ぬまででした。
近年、東京ボランティヤ代表として金子貴一様たち、募金してくれた高花

豊様人々、東京さくら共同法律事務所弁護士河合弘之様など皆様が

私たちに同情して親身になって援助して下さいました。また祖国の政府が

協力してくださいましたのでついに永住帰国することができました。
しかし、私たちはある人は半世紀以上の長い間に異国の風俗習慣の

中で、祖国と全く違う社会に暮らして来ましたので日本語も全く忘れま

した。祖国の政府は私たちが帰国した後、日本での生活習慣に適応して

暮らして行けるように今の経済のよくない時期にたくさんお金を使って私

たちに国費で帰国者定着促進センターに入所させてくれました。少

なくとも四ヶ月の勉強の期間は安心して生活できます。またその後定着地

での暮らしについても自由に安心して生活できるように帰国者定着促進セ

ンターでは所長様をはじめて総務課と教務課と定着課と労働課

など組織をあげてたくさんの人力と予算を使って援助してくれています。

7.思うこと

特に一言付け加えたいことは、4ヶ月の勉強の期間中に帰国者定着促進

センターの所長様、課長様はじめ先生様方と職員様方の皆さんはと

てもよい人たちで毎日笑顔で話したり教えたりしてくださいました。本当

に身内のように毎日楽しいかったです。このご恩情は何時までも忘れませ

ん。心からお礼を申し上げます。
私は祖国の政府と役員方と帰国者定着促進センターの皆さんと残留

邦人の帰国を支援する会ボランティヤとまた大勢の同胞が私に同情し関心

を示してくれたご恩情に感謝するのために今一生けん命に日本語と祖

国の風俗習慣を努力して勉強します。後に同胞たちと同じように努力して

働いて税金を多く納めて。人間が生きている時間は社会に貢献をしてご恩

返しをしたいと思っています。
私の日本語また下手ですからもし間違たらどうぞお許しください。

敬祝祖国繁栄昌盛

      57回帰国者定着促進センター211号室16クラス17号

                        藤本相美(71才)



平成11年 元旦