中国・サハリン帰国者教育の相互支援ネットワーク

2015年12月28日号

編集・制作:中国帰国者定着促進センター
          教務部講師会
発行者:中国帰国者定着促進センター

今号を印刷してお読みになりたい方は、こちらのPDFをご利用ください。2015年12月28日号PDF

◎目次――――――――――――――――――――――――――――――――
地域情報ア・ラ・カルト
 ・大海グループ 介護・日本語教室見学記
  ・ユッカの会の今(横浜市)
  ・「中国帰国者のための介護付き有料老人ホームを」、二世奮闘中!

とん・とんインフォメーション
 ・70周年記念公演会動画がYouTubeで見られます
  ・『中国語を母語とする人のための医療用語・表現集』改訂版
  ・2016年度入学者向け都道府県立高校の中国帰国生徒及び外国籍生徒への高校入試特別措置等について
  ・《目的別日本語学習参考資料一覧》中国語版・日本語版 web上で公開
  ・法テラス、多言語情報提供サービス開始
  ・サイト紹介 中国語で運転免許の学科試験が受けられる道府県情報(その3)
  ・サハリン(樺太)残留邦人の共同墓地建設賛助金、募集中!
  ・ニュース記事から 2015.9.4-2015.12.20

遠隔学習インフォメーション
 ・2015年度スクーリング講師研修会報告

事例紹介
  ・「身元未判明孤児肉親調査員」太田裕康さん ―私に与えられた仕事―

地域情報ア・ラ・カルト

大海グループ 介護・日本語教室見学記

 11月28日(土)、東京新橋で「日中友好・大海グループ」が開催している教室を見学した。大海グループはもともと踊りや交流の会として活動していたそうだ。活動の中心人物であった支援・相談員のWさん(帰国者二世)が、支援・相談員として医療通訳に入った際に、ある帰国者一世の自立生活が難しくなっている状況に気づいた。もう少し早く発見できていたら要介護状態になる前に何らかの手を打てたのではないか、そこから介護保険制度ついての知識を学んだり介護予防ができたりする場が持てないかと考え、中国残留孤児援護基金からの団体助成を受け、この教室をスタートさせたという。

 教室は10月に立ち上げられ、現在、土曜日の午後に月二回のペースで開催している。このグループの特徴は、帰国者二世の女性達が中心となって、お互いに役割分担しながら運営しているところだ。4、5名の二世が核となり、皆で今日の授業を振り返ったり今後の活動について相談したりしているそうだ。現在、参加者は20名ほどいるそうだが、見学当日は14名の参加で東京の各地域から来ていた。二世も5、6名参加していた。

 講師役の2名はそれぞれが介護のプロである。一人は、長年、介護事業所のケアマネージャーとして働いてきた中国系のSさんで、たまたま、知り合いのケアマネから帰国者の担当を依頼され引き受けたのが帰国者との出会いだったとのこと。それまで、帰国者のことは全然知らなかったが、このような人たちがたくさんいるのなら中国語を使って帰国者の介護の手伝いができないかと、長年勤めてきた事業所を辞め、自分で居宅介護の事業所を立ち上げた。現在、ケアマネとして10名を担当しているが、その内の9名は帰国者だそうだ。Sさんが言うには、帰国者を担当するには、やはり「信頼関係」を作るのが大切だという。その信頼関係を築くためには、ある程度中国の人間関係の価値観を受け入れながら対応する必要があると言う。この辺は、一般の日本人ケアマネにはない強みかもしれない。また、帰国者の中には、制度上の制約に対してなかなか納得ができなかったり、事業者と交わす「契約」という概念がうまく飲み込めない場合もあり、介護サービス提供側とズレやトラブルが生じることもあるという。このような実体験に基づき、Sさんは介護制度の基礎や介護サービス利用上の注意点、日本語で覚えた方が良い言葉などの講義を受け持つ。

 2人目は、介護現場で20年のキャリアを持つHさん。Hさんは、1980年、15歳で残留孤児である母について帰国した二世だ。Hさんは介護制度ができる前から、訪問ヘルパーとして高齢者の介護に携わり始め、その後もいくつかのデイサービス、グループホームなどで経験を積んできたが、今年退職して現在充電期間中だそうだ。これまでは、一般日本人対象の介護現場で働いてきて、帰国者を世話したことはなかったという。Hさんは、自分が身につけてきた介護技術(家族にとって必要な介助技術の諸々)や介護予防体操などを参加者に教えていきたいと考えている。
 見学当日は、1限目はSさんが介護制度利用の主な流れと、申請書の書き方、要介護認定調査の主な内容、介護度について講義をしていた。実際の申請書フォームを使いながら記入する時のコツを具体的に教えていた。2限目は、Hさんの声かけの下、皆、楽しそうに座ったままで行える介護予防体操を行っていた。

 現在、二、三世の参加者は、親が介護サービスの利用を始めたところであったり、これから介護が必要となるかもしれないという動機を持って参加しているが、彼らの中には、今後ヘルパー資格を取って一世の老後を支えたいと思っている人もいるという。Wさんはそのような人のために「介護職員初任者研修」資格取得のための学習支援ができたらと考えているそうだ。

 今はまだ、介護サービスを利用している帰国者は多いとは言えないが、このような予備知識を入れられる機会があれば、介護保険制度を利用する敷居も低くなるのではないだろうか。今回、教室を見学して一番頼もしかったのは、介護現場で経験を積んできたSさんやHさん、支援・相談員として帰国者に関ってきたWさんや他の運営メンバーのように、一世の老後を本気で支えたいと思う二世や支援者が自ら動き出したということだ。また、このような教室は、一世のためだけではなく二世自身の老後に備える機会にもなるのではないかと思う。

(bab)


ユッカの会の今(横浜市)

 1988年に中国帰国者の子供たちの補習教室として発足した「ユッカの会」ですが、その後は、大人の日本語教室、「地域教室」での高齢帰国者の支援、と活動の幅を広げてきました(本紙第4・30号で紹介)。戦後70年の節目の年、代表の中和子さんに「ユッカの会」の今についてお話を伺いました。

 全国の帰国者支援事業における共通の課題ですが、「ユッカの会」も近年は一世の高齢化と向き合う活動が多くなっています。認知症の勉強会、AEDの講習会、健康体操教室など自分で自分を守るための知識や技術を持つための機会をつくるとともに、帰国者が暮らす地域で日常的に「地域ケアプラザ」につながることができたらと考えています。

 「地域ケアプラザ」は横浜市独自の施設で保健福祉活動と地域住民の交流の拠点です。@「地域包括支援センター」であるとともに、A住民がボランティア活動をするための場所を貸す、住民同士の交流をすすめるイベントを開催する、B居宅介護支援(担当地域の方々のケアプランをつくる)、Cデイサービスを提供するという4つの役割を持っていて、おおよそ中学校区に1つあります。帰国者の方々に、地域ケアプラザを身近に感じてもらい、「地域ケアプラザに行けば、情報が得られるし、相談もできるし、何とかなる(助けも得られる)!」ということを知ってもらうために、会の料理教室などの交流活動を地域のケアプラザの部屋を借りて行うようにしています。一度行ったことがあるというだけでもずいぶん敷居が下がりますし、ケアプラザをどのような人がどんなふうに利用しているかが自然に目に入ります。また職員と接する機会もあります。帰国者の方々が何かにつけて「そうだ!ケアプラザに行こう」と気軽に行動できるようになることを願っています。

 また、住民サービスの担い手の方々に帰国者の存在を知ってもらうことも重要です。
ふだん帰国者や外国人との接点が少ない人は、相手の発話を聞いたとたん「この人は日本語が通じない、どうしよう」と構えてしまい、対話ができないことがあります。しかし「やさしい日本語」でゆっくり丁寧に話すことで、伝え合える場合も多々あります。私たちの地域に、帰国者や外国人の方々が日々ともに暮らしている現実を、機会を捉え伝えていくことで、その構えが少しずつ崩れていくことを期待しています。ある帰国者の孤独死をきっかけにつながりを持つようになった、地域の専門家の方々(ケアマネージャー、保健師、看護師、医師、民生委員等)との情報交換も大切にしています。ケアマネージャーの発案で「やさしい日本語」の研修会も実施され、地域の支援体制に心強いものを感じているこのごろです。

 最後に、一つ具体的な取り組みを紹介します。
2002年、高齢者対象の「地域教室」は、帰国者一世を対象とする別組織「しゃべり場」として独立しました。「しゃべり場」では、皆さんが日本語やパソコンを勉強していますが、その活動の中から生まれたのが、中国家庭料理のレシピ集『楽々 おいしい料理 2012 ITサロンしゃべり場』です。(所沢センターのHPの介護研修情報の中でも紹介)。2005年、一般のパソコン教室に参加することが困難な帰国者一世のためにパソコン教室を始めました。当初はローマ字の習得や日本語の表記のルールなど、パソコン操作以前の課題も多く、それらを一つずつ克服し、やがて「しゃべり場」で開催する交流イベントのチラシや料理教室のレシピを自分たちで作成するようになりました。それらレシピの中から中国料理に絞ってまとめたのがこのレシピ集です。中国の一般家庭で作られる料理が取り上げられているのが特徴です。また、このレシピにある中国家庭料理を、公共施設のカフェを借りて提供する「中国家庭料理の会」もこれまでに何回か実施してきました。毎月やってほしいという要望が出るほど、地域の皆さんにも好評です。自分たちの長年の学習の成果が一つの出版物になったときの喜びや達成感は、わたしたちの想像を超えるものでした。さらにそれを活用して地域の人との交流の場を創り出せていることで、携わっているみなさんは一層自信をつけてこられました。

 「しゃべり場」に参加するため、遠くからでも毎週横浜に集まってきて、仲間と顔を合わせ、日本語やパソコンを勉強する。みんなが集まり、ともに過ごす場があることで、万全ではありませんが、お互いに連絡を取り合い、支え合う繋がりも強くなっているように思います。

ユッカの会 HP http://yukkanokai2014.web.fc2.com/
しゃべり場 HP http://1st.geocities.jp/yukkanokai/



「中国帰国者のための介護付き有料老人ホームを」、二世奮闘中!

 所沢センターが帰国者のための介護情報提供プロジェクトを開始して3年目の今年、『援護基金報』で帰国者受け入れ可の介護施設の情報提供を呼び掛けたところ、連絡を取ってきてくれた二世の方がありました。大阪市平野区にある介護付き有料老人ホーム「ひだまりの家」に勤務している今川正大さんという方で、受け入れ準備を整えているとのこと。実は、プロジェクトチーム一同勉強不足にして、有料老人ホームは料金が相当かかるため、帰国者の入居は難しいのではないかと考えていたので、初めは「え?帰国者も利用できるの?」と思ったのでした。今までに実際にホームに入居されている帰国者の存在は知っていましたが、それは例外的なことと考えていたのです。

 しかし、調べてみると、支援給付や生活保護受給中の帰国者も、施設の方針次第では入所できる可能性があることがわかりました。今後ますますニーズの高まるであろう介護付き老人ホームです。先鞭をつけてくれた「ひだまりの家」の取り組みを紹介することで、志ある二三世の皆さんにも起業の可能性を考えていただければと思いました。
以下、同施設の帰国者担当の濱崎さん、今川さんのお話から…

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 帰国者を受け入れるためにはまず、生活保護や支援給付受給者に介護保険サービスを提供する施設として、自治体から「生活保護法」と「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進並びに永住帰国した中国残留邦人等及び特定配偶者の自立の支援に関する法律」による指定介護機関としての指定を受ける。

 「ひだまりの家」では、経営者が以前から中国帰国者に関心があり、他の利用者と同じようにお世話できないかと考えて数年前にこの指定を取得していた。しかし、帰国者の生活実態についての知識も個人的なつながりもなく、実際にはサービス提供に至っていなかった。そこで、その現状を打開すべく同じ志を持っていた今川さんにスタッフとして加わってもらったことから、より実態に即したサービス提供態勢が取れるようになった。具体的には、中国語のできるスタッフの配置、衣食住にわたる中国文化の尊重、中国系入所者専用のフロア設置など。そのことで行政側もこちらの言うことに耳を傾けてくれるようになった。実績はまだこれからだが、既に20件以上問い合わせがある。

 指定機関になると料金設定は安く抑えることができるが、自治体から補助が得られるわけでもないため、生活保護費を含めた支援給付の範囲内でやりくりしなければならず、場合によっては施設側の持ち出しになってしまうので苦労する。

インテリアも中国風の中国フロアの廊下(同施設サイトより)



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二世三世の志、陰ながら応援していきたいと思っています。続報をお楽しみに!

「ひだまりの家」中国語の紹介ページ → http://www.hidamarihouse.com/bxslider/index.html

(an)

とん・とんインフォメーション

70周年記念公演会動画がYouTubeで見られます

 2015年8月26日に所沢市民文化ホール“ミューズ”で開催された「中国帰国者戦後70周年記念公演会」の様子を『同声・同気』web版2015年9月号で紹介しましたが、公演の模様がYou Tubeで視聴できるようになりました。

(公財)中国残留孤児援護基金HP→トピックスから
http://www.engokikin.or.jp/topics/tabid/66/Default.aspx?itemid=93&dispmid=389


『中国語を母語とする人のための医療用語・表現集』改訂版

斎藤裕子 著
公益財団法人中国残留孤児援護基金 帰国者用教材グループ編集
B5判352頁 定価2,500円(税込)

 2006年に第1版が出版された本書は今回の改訂で、新項目としてX章「検査項目」を追加しました。現在、医療機関では多種多様な検査が実施され、その結果が渡されます。しかし、検査項目は詳細かつ多岐にわたっており、検査の数値が何を表わしているのか、理解することは容易ではありません。今後は、検査結果を判断する際に、新しく追加されたX章を参照。また、他にも一部語彙の中国語訳が訂正され、各章毎にインデックスもあり、使いやすくなっています。

「医療用語・表現集」は以下項目が、完全日中対訳で構成されています。

T「場面・流れ」
01受付/02診療・治療/03薬/04検査/05入院/06手術/07生活・看護・介護
U「部位・症状」
01頭・顔/02目/03耳・鼻/04口・あご/05歯/06のど/07首・肩・腕/08胸部/09腹部/10背中・腰/11手・足/12泌尿器・生殖器/13便・肛門/14皮膚・毛髪/15骨・関節・筋肉/16神経/17精神/18血液・リンパ液/19免疫・代謝異常/20緊急症状/21全身症状/22外傷/23痛み/24公害病・難病など/25伝染病/26女性/27子ども/28高齢者
V「機関・制度など」
W「問診票」
X「検査項目」※今回追加された章
 Y「索引」

購入先:「(公財)中国残留孤児援護基金」 (電話 03-3501-1050)
HP(http://www.engokikin.or.jp/publication/order/tabid/93/Default.aspx)から申し込めます。
 遠隔学習課程「医療コース」を受講すると教材として入手することも可能です。
中国残留邦人関係の方以外の一般の方も購入可能です。



2016年度入学者向け 都道府県立高校の中国帰国生徒及び外国籍生徒への高校入試特別措置等について
-47都道府県+政令指定都市のうち12都市の市立高校調査-

当センターホームページにアップされています。以下のサイトからご覧ください。
http://www.kikokusha-center.or.jp/shien_joho/shingaku/kokonyushi/kokonyushi_top.htm

前年度からの主な変更点は以下のとおりです。
〇中国等帰国(=引揚)生徒について
・特別措置の設定(山梨:前年まで「なし」となっていましたが、実際には特別入学枠のあるすべての学校で特別措置を行っています)
・特別入学枠のある学校増(愛知)

〇外国籍生徒(中国帰国生徒以外)について
・特別措置の設定(山梨)
・滞日年数制限に条件付加(佐賀)
・特別措置の内容で、辞書持ち込み申請が可能に(電子辞書は不可)(東京)
・特別入学枠設置(三重、兵庫)
・特別入学枠のある学校数や人数等の増(千葉、東京、神奈川、愛知)
・特別入学枠のある学校数は減だが、定時制に入学枠を設置(三重)

〇中国等帰国(=引揚)生徒と外国籍生徒(中国帰国生徒以外)の両者について
・入学後の日本語や教科の支援開始(徳島)
・入学後の支援内容追加−モデル校の設置(兵庫)
・編入学の可能性が「あり→なし」に(宮城)


《目的別日本語学習参考資料一覧》中国語版・日本語版 web上で公開

 2015年9月25日号でご紹介した、「日本語遠隔学習課程(通信教育)」に関するニーズ調査を実施した際に、遠隔学習の開講コースで扱っていない分野について「学習資料がほしい」と切実な希望を寄せてくださった方が多数いらっしゃいました。これらのニーズに応えるために、インターネット上で利用可能な学習資料や市販の書籍の情報を集めた《目的別日本語学習参考資料一覧》を作成し、同声同気HPにて公開しています。
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/kyozai/kyozai_top.htm

【内容】
 1.テレビや新聞等で見かける新語や片仮名語の意味を知りたい
 2.日本語の擬音語・擬声語について知りたい
 3.助詞専門のテキストや問題集がほしい
 4.仕事上のメールのやりとりなど、日本語を正しく使えるようになりたい
 5.日本の歴史や地理、伝統文化について学びたい
 6.日本語の文学性がある短編の文章が読みたい
 7.こどもと学べるようなDVD教材がほしい
 8.パソコン関係の本や資料がほしい


法テラス、多言語情報提供サービス開始

 法テラスは、多言語情報提供サービスを始めました。
 スペイン語、ポルトガル語、英語、中国語、韓国語を話される方から0570-078377 (おなやみナイナイ)にお電話をいただくと、通訳を介して、日本の法制度や相談窓口情報をご紹介いたします。

 ※相談内容の例として「離婚、パートナーの暴力、給料がもらえていない、解雇された、ビザ、事故、借金など」が挙げられています。
http://www.houterasu.or.jp/multilingual/index.html


サイト紹介 中国語で運転免許の学科試験が受けられる道府県情報(その3)

 『同声同気』第54号と57号で、「中国語で運転免許の学科試験が受けられる道府県情報」(22道府県)をご紹介しましたが、下記のサイトによれば、現在は以下の28道府県に増えているようです。(2015年4月1日現在)
〔北海道・青森・宮城・栃木・神奈川・静岡・長野・新潟・石川・富山・愛知・福井・滋賀・京都・和歌山・大阪・兵庫・岡山・島根・鳥取・山口・高知・徳島・長崎・福岡・熊本・大分・鹿児島〕
http://menkyo-click.com/china/index_j.html
中国語以外にも英語、ポルトガル語、タガログ語、韓国語に対応しているところがわかります。


サハリン(樺太)残留邦人の共同墓地建設賛助金、募集中!

 札幌市で2015年11月からサハリン残留邦人の共同墓地建設が始まりました。慰霊碑は北海道浦臼町の金剛寺にあるそうですが、共同墓所建設は日本でもサハリンでも今回が初めてです。共同墓地は「NPO日本サハリン協会」と「サハリン日本人会」の会員のためで、来年5月上旬に完成する予定です。現在、サハリン協会が賛助金を募っています。

詳細は協会のホームページをご覧ください。
http://sakhalin-kyoukai.com

藤野聖山園 
〒061-2271 北海道札幌市南区藤野901番地 電話:011-592-1350

■お問合せ
 TEL:03-5453-2931  FAX:03-5453-2936
 E-mail:info@sakhalin-kyoukai.com  


ニュース記事から 2015.9.1〜2015.12.20

2015/09/04 樺太等残留邦人15名が9月5日より12日間集団一時帰国/厚労省
2015/09/05 日中友好協会県連合会、県に通訳サービスや選挙公報の中国語での情報提供など、帰国者二世ら支援策を要請/福岡
2015/09/10 夜間中学統合、生徒「通えなくなる」 太平寺中/大阪
2015/09/16 中国残留邦人14名が9月17日より12日間集団一時帰国/厚労省
2015/10/01 公立高入試、外国人特別枠を導入 来年度モデル校3校指定/兵庫
2015/10/08 中国残留孤児の訪日調査 3年連続で見送り/厚労省
2015/10/13 戦後70年 日中共同で残留孤児養母から聞き取り調査 戦後当時の状況や生活実態について語り継ぐ取り組み/中国・長春
2015/11/04 中国帰国者支え10周年 飯田でNPOの宅老所「ふれあい街道ニイハオ」利用者ら交流会/長野
2015/11/06 渡辺祥子さん「シベリア抑留記録・文化賞」受賞/東京
2015/11/11 サハリン帰国者 墓所建設に安堵の声/北海道(→記事あり)
2015/11/11 中国残留邦人と認定 東京の女性が逆転勝訴 東京高裁/東京
2015/11/12 中国残留孤児と中国人養父母の歴史を写真や講演などで紹介する「日本人孤児と中国養父母歴史展」開催/東京
2015/12/04 中国残留邦人6名が12月7日より12日間集団一時帰国/厚労省
2015/12/06 夜間中学校増やそう、文科省動く 7道県が新設検討
2015/12/10 帰国者同士の結束と生活上の課題解消目指し「兵庫県中国帰国者の会」設立/兵庫
2015/12/13 残留孤児育てた思いに光 中国人養母ら阿智に招きシンポ/長野

 

遠隔学習インフォメーション

2015年度スクーリング講師研修会報告:所沢センター

研修会テーマ:「これでいいの? 私のスクーリング2015
                         −スクーリングの工夫や悩みをシェアしよう−」


 11月12日、13日の2日にわたって「遠隔学習課程(通信教育)」のスクーリング講師を対象とした研修会を行いました。平成27年度は、全国から24名の参加を得ました。
1日目は、まず所沢センターで27年3月に行った遠隔学習課程ニーズ調査の結果を報告しました。遠隔課程を受講する理由、遠隔課程を取っていない理由、日本語学習の必要を感じる場面や目的、開講を希望するコース、自身の日本語や学習への思い等を紹介しました。
 その後、参加講師が担当している遠隔課程のコース別に5〜9人の4つのグループに分かれ、1日目、2日目合わせて4時間弱、意見交換を行いました。コース別の学習目的や達成目標などを踏まえながら、個別の受講者のスクーリング状況に関して、配慮や工夫をしている点、対応に迷う点、今後の方針などについて、グループの皆が耳を傾け、一緒に考えました。
 お話を伺う中で、学習者としての帰国者の多様性を改めて痛感しました。受講者は三者三様、年齢も日本語力も学習への慣れも異なり、また、同じコースを受講していても学習ニーズが同じとは限りません。受講者が住んでいる地域の地域性も考えなければならない場合もあれば、受講者が抱える生活状況や家族関係、健康状態までを視野に入れて学習を進めていかなければならない場合もあります。標準的な教材を学習者に合わせて臨機応変に調整し、受講者と相談しながら、その時の受講者に必要な学習をコーディネートしていく能力がスクーリング講師には必要であることを強く実感しました。

 

事例紹介

「身元未判明孤児肉親調査員」太田裕康さん ―私に与えられた仕事―

 
 このコーナーではこれまで、帰国者一世世代、二世世代それぞれが「日本」で切り開いてきた人生、その喜びや苦難、そして老後のくらし等々を紹介してきました。当初は、帰国者だけではなく支援者として活動してこられた方々のことも紹介したいという思いを持ってスタートした企画だったのですが、今回、ご自身も旧満洲から奇跡的に生き延びて帰国されたのち支援者としての道を歩んでこられた太田さんのお話を掲載することができ、ようやく所期の目的を達成することができました。
 太田さんとの出会いは2年前、太田さんが「身元未判明孤児肉親調査員」(以下、「調査員」) の活動の一環として情報を求めて所沢にいらしたことに始まります。長年帰国者と接していながらこの「調査員」という肩書きを初めて耳にした私たちは、そのお仕事について、そのご苦労について取材したいと連絡をとらせていただくうちに、太田さんの来し方そのものをこのコーナーで紹介したいと考えるようになりました。このたびの取材は、耳が遠いとおっしゃる太田さんと私たちとを繋いでくださった娘さんの協力を得てまとめたものです。


国が、当時の事情に精通した者を「調査員」として都道府県に配置し、未判明孤児の肉親調査を依頼している。調査員は、孤児を捜す肉親関係者や、当時のことを記憶している元開拓団関係者から聞き取り等を行い、孤児の身元解明につながる情報を収集する。


【調査員として】
青森県五所川原市大字飯詰在住。飯詰開拓団として家族で渡満、終戦、引き上げを果たした経歴から、当時の事情に精通した人材として調査員を依頼される。

 平成16年から調査員として活動。調査員は青森には私1人です。
国が全国に配布した「中国残留日本人孤児公開名簿」(身元のわかっていない孤児について、写真や肉親との離別時の状況等手掛かりとなりそうなものを全国に公開して情報を募るもの)を、まず県の担当者が調査し、何か情報が見つかると、それを調査員に伝えてくれます。そこから調査が始まります。この仕事に任命されたばかりの頃は年間5、6件ほどの調査依頼がありましたが、年々、少なくなりました。私が係わった12年間では20~30件くらい。名簿を公開してもここ2年間くらいは1人も見つかっていないようです。手掛かりは刻一刻と失われつつあるという状況なのでしょうね。
 調査員になったきっかけは平成4年に飯詰開拓団の人々が墓参団としてソ連国境近くの旧満州国間島省の地に行ったことです。墓参のために数年かけて入植者の調査をしに県庁に通いました。その時、県庁から中国帰国者の自立指導員になってほしいとの話がありましたが、まだ“出かせぎ”の仕事をしていたのでお断りして、墓参団で行動を共にした知人を指導員にと推薦しました。その後、今度は調査員の話があり引き受けました。
 初めの頃は調査しやすかったのですが、個人情報保護法が施行されてからは、役所に行っても、それがネックになって調査が困難になりました。しかし、県の担当者を通せば戸籍等は調べられます。また、一般の引き揚げ者の方々を訪問し聞いて回ることもしました。満州からの引き揚げ者がいるという話を聞けば尋ねて行く、墓参の時に作った名簿を頼りにして片っ端から調べ、遠い人の場合は電話で聞いたりという調査でした。
 調査には国から年に25,000円が支給されます。県内はもちろん、必要であれば東京方面へも出かけていくので、とにかく旅費や交通費がかかりました。足りない分は自腹ということになります。

【国からの補償の手続きを手伝う】

 肉親調査に歩いているうちに、私は現地で召集されて苦労した人、命を落とした人が恩給欠格者※1として国からは何もしてもらってないことに気づきました。国策として始められたことなのに酷い扱いだと思ったのです。戦後強制抑留者※2 もそうです。父はその1人でした。そして、その頃、総務省の「独立行政法人平和祈念事業特別基金」※3 という制度を知り、そういう方々の慰めのひとつにでもなればと手続きなどのお世話をさせてもらうようになりました。当時の首相の名前で苦労をねぎらう感謝状、人によっては金杯や金十万円というのもありました。1人でも多くの方にと思って一生懸命でした。でも、人の気持ちは皆同じではありません。感謝状なんていらないという人もいます。引き揚げ者の方々は皆同じように大変な苦労をされたと思いますが、その記憶を語れる人もいれば、決して口にしない人もいます。
  ※1
太平洋戦争において軍人としての在職経験が短いため、恩給の受給対象にならない者のこと。戦争末期に動員された徴兵制度での徴集兵は対象とはならない。
  ※2
大戦が終結したにも関わらず、ソ連などの収容所で過酷な労働を強いられた方たちのこと。日ソ国交回復の昭和31年末まで帰国できない人もいた。
  ※3 恩給欠格者、抑留経験者、引揚者を慰労する事業。1988年に設立、2013年4月1日に解散した。

 

【永住帰国、受け入れる親族の苦労】

 そして、続々と中国残留孤児の方々が永住帰国されましたが、当初は現在のように国が全ての面倒を見てくれたわけではないので、受け入れた日本の親族は大変でした。帰国者は日本人ですが生活習慣・文化は中国人なので、当時裕福な国と思われていた日本の親族に対しての期待や要望も多く、とにかくお金がかかって大変だったのです。ご主人の兄弟の帰国で大変なことばかりが続き、奥様がノイローゼ状態になったという人もいました。説得しても親族がどうしても帰国を受け入れなかったということも少なくはなかったのです。他の地域でもこうした話はよくあったのではないでしょうか。

【墓参団を企画】

 飯詰開拓団は約100戸数で731名、死亡241名、資料の未帰還者数120名が、行方不明を含み帰れなかった方の数だと思います。
 平成4年の墓参団は、父が生前、一度満州に墓参りに行けたらなぁと言っていたのが心にあって企画しました。46年ぶりの中国です。太田家では満州で生まれた末の弟が双子で1人は生まれて間もなく亡くなりました。そして、逃げる途中に身重だった母親は流産しました。その子供2人の、それから収容所で亡くなった父の両親の墓参りをするためです。

【満州行き、そして終戦−父が助けた人に助けられる】

 私の家では、突然着の身着のまま逃げなければならなかったその時、一番下の弟(2歳)が中国人の養子となっていました。当時私は12歳でしたが、父が招集されていたため、いわば一家の長として、弟を残しては行けないと思い、その家に迎えに行きました。でも簡単に渡してくれるわけもなく言葉も通じなくて困っていたところに、見かねたその家の近所の方が話をしてくれて、幸いなことに無事に連れて帰ることができたのです。その方は、父が召集される前に、困っているところを助けたことがあったという方で、息子である私の顔を知っていたそうです。信じられないような偶然の出来事で、小さな弟を手放さなくて済んだのです。
 太田家では、父は、自分の父親を早くに亡くし、複雑な家庭環境だったため、満州に行くことを決意し、家や土地を処分したのでお金がありました。父は現地で召集されるとき、もしも逃げなければならなくなった時のために家族全員分のリュックを準備して息子である私に託しました。私は父に言われた通りにみんなにリュックを渡し、ふと神棚に目がいき「神様を持っていかなきゃ」と思い、手をかけたところ何か重たい物が落ちてきた、それが現金だったのです。家族は、母、私を含め子供5人の6人でしたが、難民生活の途中から障害で歩くことのできない叔父が加わって7人の逃避行となりました。そして身重だった母親が流産して衰弱し、もう一歩も歩けなくなり、大事な金品は私に托されました。私は、歩かなければならないときは、お金で人を頼んで、歩けない叔父をおぶってもらいました。

【ソ連軍のトラックに乗って、朝鮮人の集落に】

 最後の1年の難民生活は13歳の自分が先頭に立ちました。途方にくれ、辺りを見回していたら軍のトラックが止まっていて、よく見るとタイヤ交換をしている様子。向かっているのは同じ方向。でもそれはおそらく最も恐れるソ連兵のトラックに違いない。考えただけでも怖くて震えたけど、どうせ、もう進めなければここで死ぬだけだと思い、トラックに向かいました。もちろん言葉は通じないが乗せてほしいというのはわかってもらえて腕をつかまれました。でもこちらは1人ではない。家族のことを言っても通じなくて、お互いに引っ張り合ってやっと分かってもらえました。トラックが家族のところまで動いてくれて次々と荷台に乗せられたのですが、10歳の妹がソ連兵が怖くて泣き叫び、やっとのことで乗せて出発。
 そして、トラックから降ろされたのは朝鮮人の集落の前でした。さて、これからどうしたら…と思っていると声をかけてきた朝鮮人の方がいて、どこの者かと聞かれ、飯詰開拓団だと答えると太田寅一(父の名前)を知っているかと聞かれました。寅一は自分の父親だと答えるとその方は全員を自分の家に案内してくれて食事から衣類や布団まで提供してくれたのです。寅一は開拓団にいたときは、農業ではなく軍の兵隊の食事の供給係のような仕事をしていて、毎日残り物をもらえました。仕事の帰り道に中国人の集落や朝鮮人の集落があって、その当時は日本人がもともとの住民である彼らを追いやって暮らしていたので、日本人よりも貧しい暮らしでした。寅一は毎日そうした集落に立ち寄って食べ物を分け与えてから家に帰りました。家族もこのとき初めて聞いた話でした。そうして助けられたという朝鮮人の方が、収容所に入るまでの間私たち家族を助けてくれたのです。

【たくさんの人に助けられた】

 収容所に入って私はすぐ高熱で倒れましたが、偶然、一緒になった遠い親類が軍の看護婦だったため、薬を持っていて助けられました。実は、小さい弟や妹はそれぞれ中国人の養子になり、お腹いっぱいになると逃げて帰るというのをくり返していました。最も寒い数ヶ月は、父寅一が農地を貸していた中国人の方が一家を住まわせてくれました。
 引き揚げのときも歩けなくて、常に隊列の最後尾にいたので、八路軍の監視役の兵隊さんが声をかけてきて話をしたところ、開拓団の学校の用務員をしていた朝鮮人の方で、盗みの疑いをかけられたときに寅一に助けられたと言って、食べ物を分けてくれました。
 こうして、いつもたくさんの人に助けられ神様に護られて、誰も命を落とさず日本に帰ることができたのです。そして、昭和21年8月に博多に着き陸軍病院に入りました。青森に着いたのは11月、もう雪が降っていました。

【開拓団のことを知る人間として】

 青森に当時のことを話せる方はほとんどいないと思います。墓参団で一緒だった方々も亡くなってしまって、私よりも歳若い人は存命していても当時の記憶があいまいで語れないのです。私は父が仕事上開拓団の事務所によく出入りしていたので、いろいろな話を聞いていて記憶しているのです。
 こういう事情で、当時のことを知っている私が、調査員をやってきてよかったと思うことは、12年間これが自分の励みとなり生きがいになったことです。この生きがいがあったから、大怪我をしても脳梗塞を患っても復活できたのだと思っています。神様は私のためにこの“ご用”を与えてくれたのだと思い、感謝しています。

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