中国・サハリン帰国者教育の相互支援ネットワーク

2014年2月13日号

編集・制作:中国帰国者定着促進センター
          教務部講師会
発行者:中国帰国者定着促進センター

今号を印刷してお読みになりたい方は、こちらのPDFをご利用ください。2014年2月13日号PDF

◎目次――――――――――――――――――――――――――――――――
地域情報ア・ラ・カルト
 ・「支援・相談員」の現場から(その9)−中国・四国地方(高知市)− +中国語訳

研修会報告
 ・小・中学生、高校生の子を持つ中国帰国者2・3世のための勉強会(「支援・交流センター便り」より転載)
  ・2013年度 日本語教育学会秋季大会

とん・とんインフォメーション
 ・「高等学校等就学支援金(新制度)」7か国語で説明が見られます
  ・ニュース記事から 2013.12.7-2014.1.31
    『望郷の鐘』/千野 誠治氏/残留孤児が養父母に感謝碑建立

遠隔学習インフォメーション
 ・2013年度スクーリング講師研修会報告:所沢センター
      「二、三世のコミュニケーション力を伸ばす指導を考える」/「高齢受講者への対応」
  ・自己表現作文より 1世配偶者王兆生さんの作文「初めての一時帰国」

地域情報ア・ラ・カルト

「支援・相談員」の現場から(その9)−中国・四国地方(高知市)− +中国語訳

Uさん 高知市福祉課支援給付支援相談員

1.日頃の活動

 高知県では大半の帰国者が高知市内に住んでいます。私も帰国者の二世ですが、高知市の福祉課で支援給付支援相談員として、平成20年度から働いています。現在は28世帯、43名を担当しています。
 支援給付制度は生活保護に準じているため、制度開始当初は、生活相談というより支援給付の仕組み、年金の仕組み、介護保険の仕組みなどの説明に追われていました。日々の業務の中で支援相談員の存在と役割が徐々に浸透していき、現在はもう1人の支援相談員(20世帯34名担当)と地区分けして生活相談、介護相談、病院での医療通訳など行っております。

2.帰国者の最近の様子と相談内容

 支援給付制度開始からもうすぐ6年になり、帰国者の悩みや相談内容もかなり変わってきています。 
 まずは生活相談。帰国者一世からの相談は簡単な手紙内容の説明から深刻な家庭の悩みまで様々です。家族とコミュニケーションが取れない孫の非行に悩む家庭には、家出した孫が保護されると、警察署まで引き取りに同行したり、その後の手助けなどを行ったりしました。今はその家庭も落ち着いて暮らしています。
 さらに、住宅問題も度々出てきます。現在は歳とともに足腰が弱り、住み替えの要望が増えています。公営住宅に住んでいらっしゃる方は、主にエレベーターのない3階以上に住んでいます。同じ団地で1階への住み替えは可能ですが、皆さんは1階を敬遠しています。高齢な上、日本語も不自由で、身に危険が及んでも助けを呼べず、自衛できないので、防犯上、心配があるからです。エレベーター付きの住宅が望ましいのですが、他の団地への住み替え条件はかなり厳しいのです。そして、公営住宅の抽選は宝くじ並みで、中々当たらないと嘆いています。
 また、言葉の不自由な二世に関する相談は確実に増えています。失業したり、離婚したりして生活に困り、中には親の年金を使い込んだり、あるいは親に助けてもらったりと状況はそれぞれですが、どの場合も親の心配の種になっています。
 そして、家族が親に介護サービスを利用させたいとの相談も多くなりました。老後を安心して暮らしたいのは万国共通です。習慣と言葉の違いから介護施設の利用をためらう方が極めて多いです。私はヘルパーとして介護施設で働いた経験があり、今の仕事にすごく役に立っています。医療に関しても通訳の需要が年々高まり、体調も把握できるので、本人の要請が有れば可能な限り対応しています。言葉が不自由でためらっていた受診も、臆することなく行けるようになった、通訳してくれることで、医師の態度が変わった、わかり易く説明してくれるようになったなどと皆さんから言われます。

3.今後の問題と課題

 高齢になると、母語が自然と出てきます。「郷に入っては郷に従え」では通用しなくなります。介護施設で無理に日本語を話させるとかえって状況悪化につながり、認知症を発症させてしまいます。二、三世のヘルパー育成を急ぎ、言葉のわかるスタッフを配置した施設が出来ることを切に願っています。
 二世も高齢になりつつあります。無年金あるいは少ない年金だけでは生活できず生活保護に頼る方が多くなっています。言葉の不自由な二世に対し、福祉事務所に居合わせた時には通訳していますが、支援対象外のため、医療通訳は断っています。二世にも何らかの支援が必要ではないかと思います。

4.相談員としての悩み

 この仕事は行政と帰国者の間に立つので、時には非難の的にされることもあります。双方の立場をお互いに理解してもらうには苦労します。体調を崩すこともよくありましたが、幸い、良い上司に恵まれ、業務が多忙になった時に、支援相談員をもう1人入れてもらったので、今は2人で相談し対応しています。中四国の支援交流センターでは毎年1回のみの限られた時間の中で、医療通訳勉強会と支援・相談員の情報交換の場を設けていますが、他にも気軽に情報交換できるところがあれば利用したいです。私も帰国者二世であり、帰国後は4か月間しか日本語教育を受けられなかったので、自学には限界を感じますし、医療通訳勉強会をもっと増やしてもらえればありがたいと思います。 


来自「支援•咨询员」的现场活动报告系列之九 –中国•四国地方(高知县)-

U女士 高知市福祉课支援给付支援咨询员

1、日常活动

  在高知县内,有将近一半以上的归国者住在高知市。我也是归国者的第二代,在高知市福祉课作为支援给付支援咨询员,从平成20年度开始工作。现在,负责28个家庭,43名归国者的支援咨询工作。
  因为支援给付(支援补助)制度是参照生活保护(低保)的基准所制定的,当初,在制度刚刚开始实施的时候,与其说是生活方面的咨询还不如说是忙于对支援给付制度的内容、年金保险制度的机制、介护保险制度的构成等等进行说明。在日常的业务当中,支援咨询员的存在以及所发挥的作用也逐渐得到了人们的认识,现在又揄チ了一名支援咨询员(负责20个家庭,34名归国者的支援咨询工作),我们根据划分的地区不同,从事着生活咨询,介护(护理)咨询以及陪同前往医院就医的医疗翻译等工作。

2、归国者近期的状况及咨询内容

  支援补贴制度从开始实施已经将近6年了,归国者们的苦恼和咨询内容也发生了很大的变化。
首先是生活方面的咨询。来自归国者第一代的咨询内容,由单纯的书信内容的说明到深刻的家庭烦恼等各种各样的事情。对于由于家庭成员之间不能够进行正常地沟通, 导致孙子成为失足少年而烦恼的家庭,离家出走的孙子受到保护后,与其家人一起到警察署前去认领,此后对他们尽量提供了各种力所能及的帮助。这个家庭的烦恼现在已经消失,过着比较平静的生活。
  其次是频频出现的有关住宅方面的问题。归国者本人年事渐高从而导致腿脚虚弱、行动不便,希望换房的人不断揄チ。在公营住宅里居住的人,主要是住在没有电梯,而且居住楼层都是在3楼以上。同一团地内的住房更换并非不可能,但是大家都不喜欢一楼。理由是上了年纪,加上日语方面的语言障碍,即使感到生命有危险也不能呼救。因为不能自卫,在防患于未然方面十分担心。大家都希望入住有电梯的公营住宅,但是更换到其它团地入住条件很严格。另外入住公营住宅采取的是抽签方式,这如同彩券中奖一样,很多人屡试不中,只得汪洋而兴叹。
 
  另外,与日语方面存在语言障碍的第二代归国者子女的相关咨询也在不断揄チ。因遇到失业、离婚等生活上的困难,有的子女花光了父母的养老金(年金);有的靠父母的资助才能维持生活等,虽然情况各种各样,但是无论哪一种情况都是令父母担心的根源所在。
 
  再有,家庭成员希望父母利用介护(护理)服务的咨询也在逐渐搗ス。世界上无论是哪个国家的人都希望自己上了年纪也能安度晚年的想法都是共通的。风俗习惯及语言的不同,在是否利用介护设施方面有相当一部分人犹豫不决。我曾经在介护设施做过家庭助理员的工作,因此有了护理方面的工作经验,对于现在的工作起到了很大的帮助。对于有关医疗方面的翻译的需求也在逐年递掾C由于把握了他们的身体健康状况,只要本人提出要求,在可能的范围内尽量给予对应。以前很多人因为语言所困总是推迟就医,现在他们的这种顾虑没有了,需要就医的时候,可以随时就医了。另外由于有翻译相陪,医生的态度也发生了转变,大家一致反映: 医生的解释比以前清楚明白多了!

3、今后的问题及课题

  人要是一上年纪,母语会自然而然地脱口而出。用“入乡随俗”来约束他们是行不通的。在介护(护理)设施如果强迫他们讲日语反而会使情况更加恶化,甚至会导致诱发认知症(痴呆症)。真诚地希望尽快着手对第二、三代家庭助理员的培养;护理设施配备有懂中文的工作人员。

  第二代也开始步入老年。无养老金或靠仅有的少许养老金无法生活而依靠生活保护的人也为数不少。对于日语不太娴熟的第二代,如果遇到我正好在福祉事务所工作时,可以顺便为他们翻译,但是由于第二代不属于支援对象,所以在要求医疗上的翻译时总会遭到拒绝。我认为对于第二代也有必要给予某些支援。

4、作为一名咨询员的烦恼

  咨询员的工作立场介于行政和归国者之间,有时会成为双方的指责对象。为了使得让双方都能达成相互理解,这方面的工作的确很难做。自己体调不佳的事情时有发生,但是很幸运的是遇上了一位善解人意的上司,因业务繁忙,又聘请了另外一位支援咨询员,现在由我们两个人负责咨询和对应。中国・四国地区的支援交流中心每年一次在有限的时间内,举办医疗翻译学习会并为支援咨询员提供了信息交换的机会,此外如果还有其他可以进行信息交换场所的话,我也很想利用。我自身也是归国者子女,回日本后只接受过为期四个月的日语学习,自学日语方面已经感到了极限,如果能获得像医疗翻译学习会这样的机会,则不胜感激。

研修会報告

平成25年12月発行『援護基金』の「支援・交流センター便り」より転載

中国帰国者 地域生活支援推進事業

小・中学生、高校生の子を持つ中国帰国者2・3世のための勉強会(報告)

                                 中国帰国者支援・交流センター URL:http://www.sien-center.or.jp/


 学校に通う子どもを持つ帰国者2、3世の中には、日本語力の面でハンディがあったり、日本の学校事情がよく解らなかったりすることから、日本での子育てに不安や悩みを抱えている人が少なくない。また、忙しい2、3世に代わって保護者の役割を果たしている1世も同様である。
 家庭によっては、保護者(中国文化)と子ども(日本文化)の間に大きな異文化ギャップがあり、問題は更に複雑で深刻化することもある。
 そこで、当センターは不安や悩みを持つ保護者のために、NPO法人 多文化共生センターの全面的協力を得て、今年9月、10月の2回、勉強会を行った。

 この勉強会は、各回とも、前半は講演、後半は座談会という構成で実施し、現在、学校に通う子や孫を持つ2、3世及び1世が、延べ21名参加した。
 1回目の講演は、長年に亘り、外国から日本に来て暮らす子どもたちに、学習相談や進学相談等の支援活動をして来られた王慧槿氏(NPO法人 多文化共生センター東京 代表理事)が「外国で育った子供たち」と題して、日本に来た子どもたちが置かれる状況や保護者の役割について話された。2回目は、「中国と日本で育った私」と題して、中国帰国者2世で、現在、中国帰国者の子弟を受け入れている学校で通訳をしているI氏が、子どもたちがぶつかる言葉の問題や、アイデンティティの揺らぎなどについて、自分の体験談とともに紹介した。そして、それに対して保護者として、どう対応すればいいのかも提案された。いずれも参加者の関心が高い内容で、みんなメモを取りながら熱心に耳を傾けていた。
 後半の座談会では、参加者が質問や悩みを話していき、一人の悩みに対して、講師以外にもみんなが加わって話が進んだ。質問は、特に進路に関するものが多く、子どもの高校受験のことに悩み、親子で参加する人もいた。閉会した後は、講師に連絡先を尋ねる姿も見られた。
 勉強会を通じて、担当講師から以下のような意見があった。@保護者が学んでおくべきこととして、言語の問題、親子間の考えの相違、受験資格などがある。A進路に関する情報が少なく、相談できる相手もいないため、個別対応ができる体制作りが必要。
 今回、勉強会を開催し、保護者の抱える問題は多岐に渡り、一括りにできないことが分かった。簡単には解決できない複雑な問題ではあるが、少しでも状況が好転するようサポートしていきたい。(K)


「2013年度 日本語教育学会秋季大会」報告


 2013年の10月12日と13日、関西外国語大学で上記大会が開催されました。多くの発表の中から興味深かったものを2つ報告します。


◆パネルセッション「生活者としての外国人」にとっての日本語能力向上の意義を問う」

 このセッションでは、豊田市の外国人支援の状況について、まず「とよた日本語学習支援システム」主宰側の村上京子さん(名古屋大学)から報告がありました。続いて、労働政策研究の立場から渡邊博顕さん(労働政策研究・研修機構)が雇用条件としての日本語力の位置づけをもっと重視すべきであると訴え、雇用側として会社経営の奥田清仁さんからも「日本語能力の向上に対して何らかのインセンティブを与えることには賛成。会社ぐるみで取り組み、成果が上がった人に報奨を与える制度が有効」などの報告がありました。これに対して、外国人被雇用者の立場から中岡ヘナトさんも「求人広告も<日常的な日本語が話せること>のような曖昧な表現が多く、明確な目標になりにくい。日本語○レベル以上のような表示があれば、それを目標に勉強することができる」などと発言されました。
 とよたシステムは、独自の日本語能力判定テストの開発や教室運営など、雇用と結びつく日本語学習の目標明確化と学習支援のシステム化の上で先駆的な役目を果たしてきました。しかし、現状では、当初期待されたほど日本語能力判定の受験者数や教室参加者数が伸びていないことと、にもかかわらず意識調査の結果では「近くに教室があれば勉強したい」という人が7割と依然高い割合を占めていることが報告されました。しかし、続けて教室に来ている人は日本語力の伸びを実感しているとのことから、参加率と継続率を高めることが鍵のようです。そのための方策を考える必要があり、ボランティアとのマッチングシステムも考慮の必要がある等、課題についても触れられていました。豊田市の取り組みは今後も他の外国人集住地域に対して大きな示唆を与えてくれると感じました。


◆口頭発表「日本人/日本語母語話者による日本語の学び直し -日本社会における複言語・複文化主義の可能性-」(義永美央子さん(大阪大学))

 来るべき多文化多言語社会に向けて日本語母語話者の「日本語の学び直し」が求められるようになってきました。これを踏まえて関連の議論や実践を整理し、検討したのがこの発表で、今後の日本社会のあり方についての重要な提言が含まれていると感じました。挙げられたテーマを見ていくだけでも意義があると思いますので、以下に掲げます。
・「やさしい日本語」(災害時や行政サービス上の情報をわかりやすく伝えるために語彙・表現を簡略化する→義永:言語の専門家でない行政関係者にとって「やさしく言い替える」ことは困難。また、「やさしく」されたことで、外国人側が自身の日本語力を低く評価されたと疎外感をもつおそれもあり、一律のマニュアル化は危険でもある)
・「母語話者の接触能力」(非母語話者の日本語力にあわせて母語話者が自らの発話をより簡便な方向に調整する力→義永:この分野で主流である情報提供場面の分析だけでなく、「日本人=力のある者/外国人=力のない者」となりがちなこの場面で両者が力関係・人間関係をどう調整しているかという視点が必要)
・「共生日本語」(母語話者と非母語話者がコミュニケーションの中で対等な立場で日本語を創造していく(「やさしい日本語」のような固定されたセットではない)。これに対して、この試みが結果として母語話者同士の日本語を「共生日本語」よりも正統なものとして序列化することにつながるという批判がなされたが、「共生日本語」提唱者の岡崎眸さんは、「母語話者同士の日本語を規範として、日本語教育に携わる者が支援することが同化を促すよう機能している現状をまず浮き彫りにする。そして、そうした現状を克服するために、「共生日本語」に対する母語話者同士の日本語がどのようなものであるかを押さえていくことが必要」と説いています。→義永:「母語場面の日本語も一枚岩ではなく、方言や若者言葉をはじめ、様々な変種があることもおさえる必要がある)

 上のように研究・実践は進みましたが、日本語の母語話者側がその「所有権」を手放すことは実際には困難です。この問題について、義永さんは2つの見直しを提案しています。
1.言葉の位置づけの見直し…「接触日本語・共生日本語」を「母語話者の日本語」と対立させるのではなく、「母語話者の日本語」の多様性を踏まえて「接触日本語・共生日本語」もその一つとみなし、そのどれも標準でも逸脱でもないとする視点。
2.人の位置づけの見直し…コミュニケーションを行う二者は「日本人=力のある者」対「外国人=力のない者」とは限らない。人は複数のカテゴリーやアイデンティティに属し、コミュニケーションの場ではそれらの中のどれかが浮かび上がってくることになる。例えば、ある事柄について知識のない日本人とその知識を持つ外国人が話す時、外国人の方が主導権を握って話すこともある。こうした関係性のダイナミクスを踏まえた分析が望まれる。

・「多言語主義から複言語・複文化主義へ」
Council of Europeは、単に複数言語が併用される多言語主義と、複数言語の使用や理解を通じてそれらを統合した複言語・複文化主義とを明確に区別し、後者に基づいて、自民族中心主義の克服、学習能力の向上、言語や文化の多様性を理解し尊重する態度の育成を課題と捉えています。但し、実際問題としては、日本で暮らす全ての人の母語を併用することは現実的ではなく、日本語の共生化を進めることも必要な対応といえるのでは、と義永さんは述べています。  (an)

とん・とんインフォメーション

「高等学校等就学支援金(新制度)」7か国語翻訳

 前回のweb版(2013年12月号)でお知らせした、平成26年4月からの「高等学校等就学支援金(新制度)」について、文科省のHPで日本語の他、7か国語(英・中・スペイン・ポルトガル・韓・ベトナム・タガログ)の説明を見ることができるようになりました。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/detail/1342886.htm


ニュース記事から 2013.12.7-2014.1.31

2013/12/20 満蒙開拓題材の映画、主人公は山本慈照さん 阿智の「平和記念館」が製作協力へ/長野 ※1
2014/01/14 「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」千野誠治さん死去/東京 ※2
2014/01/23 残留孤児が養父母に感謝碑建立/鹿児島 ※3

※1は関係記事、2-3は以下に解説あり。

※1 『望郷の鐘』−中国残留孤児の父 ・山本慈昭− ついに映画化

原作(原作本:しなのき書房)・脚本:和田登 監督:山田火砂子
製作:(株)現代ぷろだくしょん http://www.gendaipro.com/bokyonokane/top.html
長野県阿智村長岳寺の元住職の山本慈昭さんの映画がこの夏、公開予定!

満蒙開拓平和記念館のピースサポーターニュース『山河』より。

望郷の鐘 映画化へ
映画「はだしのゲン」などのプロデューサーを務めた映画監督、山田火砂子さん(81)が、満蒙開拓を題材にした映画「望郷の鐘 満蒙開拓の悲劇」を制作することになりました。阿智村長岳寺の元住職で中国残留孤児らの帰国に尽力した故山本慈昭さんの生涯を描いた本を映画化します。阿智村を中心に撮影を進め、本年7月頃の公開を予定しているそうです。主演は俳優の中村敦夫さん。

 【劇映画『望郷の鐘』製作協力券絶賛発売中!】

 この映画の製作協力券を販売いたしております。製作協力券とは、映画製作費の一部となるチケットのことです。この製作協力券一枚につき、お一人様がご入場いただけます。(劇場及び、現代ぷろだくしょん主催の上映にて)当日券1,800円(前売券1,500円)のところ、製作協力券ならば一枚1,000円です。
 また、特典として100枚以上ご購入頂いた方(個人、団体を問わず)は、映画のエンディングにお名前を掲載させていただきます。「望郷の鐘」を映画化するにあたり、1枚でも2枚でもご協力いただければありがたく感謝です。ほかに,当ぷろだくしょんのDVD(個人視聴用)などお買い求め下されば感謝です。
 *送金先:郵便振替 口座番号:00160-5-76785
               口座名義:現代ぷろだくしょん
 *お問合せ:現代ぷろだくしょん TEL:03-5332-3991 FAX:03-5332-3992
         満蒙開拓平和記念館 TEL:0265-43-5580
         飯田日中友好協会TEL:090-4835-8515

※2 千野 誠治(ちの せいじ)氏

 2014年1月13日、心不全で死去。89歳。「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」事務局長。
 東京生まれ。15歳で満蒙開拓青少年義勇軍として中国東北部(旧満州)に渡り、戦後3年間、シベリアに抑留された。1948年に引き揚げた後、苦労して会社を設立。その後、中国残留孤児が帰国し始めた1980年頃から、身元がわからない残留孤児たちの国籍取得に取り組むなど支援活動を始め、彼らに帰国の道を開いた。かかわった孤児は1千人を超える。
 お墓のない帰国者に共同墓地「中国帰国者之墓」(西多摩霊園)を造り、逃避行で子どもを亡くした母親の癒えない心の傷を知ると、東京・浅草寺に「まんしゅう母子地蔵」を建立。中国、瀋陽に「養父母感謝の碑」も建てた。(朝日新聞2014.1.25記事より抜粋)

  
※3 残留孤児が養父母に感謝碑建立/鹿児島 

 中国残留邦人を育ててくれた養父母への感謝を込め、鹿児島市在住の残留邦人、鬼塚健一郎さん(73)の呼びかけと県と市の日中友好協会の協力で市内に建立されました。
 鬼塚さんは「残された私たちは、もし養父母たちが引き取ってくれなければみんな死んでいた。「異国の孤児に救いの手をさし伸べてくれた恩を忘れてはいけない」と。感謝を示す碑の建立を思い立ったそうだ。
 除幕式は平成26年1月23日。
当サイトで石碑の正面に刻まれた文章と背面の鬼塚さん作の漢詩が見られます。

遠隔学習インフォメーション

2013年度スクーリング講師研修会報告:所沢センター

「二、三世のコミュニケーション力を伸ばす指導を考える」/「高齢受講者への対応」

 全国の遠隔学習課程の受講者を地元でサポートしているスクーリング講師を対象に、2013年11月14・15日の2日間、東京で研修会を開催し、42名の参加を得ました。今年度は5月にスクーリング講師にアンケートを実施し、その結果希望の多かったものをテーマに据え、2つの分科会を設けました。1つは昨年に引き続きコミュニケーション力を伸ばす指導、もう一つは高齢受講者への対応です。以下に、各分科会の研修結果を報告します。

・二、三世のコミュニケーション力を伸ばす指導を考える:

 「おしゃべり話題」コース※は、帰国者の生活圏にいる普通の日本人とのおしゃべり(雑談・歓談)場面で必要なコミュニケーション力(会話力)を身につけることを目的としたコースです。研修1日目は、まず帰国者の日本語コミュニケーション力の現状を概観し、その後遠隔学習課程の「おしゃべり話題」コースの学習プログラムと教材『おしゃべりトレーニング』の特徴について紹介しました。『おしゃべりトレーニング』は、@日本人の歓談場面での談話パターンや、話題選び等の文化習慣的な側面を知る本であり、A1つのテーマの中で、どんなことを話したいか、話せるかを考えるヒント集、ネタ本であり、B自分のことを表現する時、使えそうな語彙表現を盗む「あんちょこ」であり、C特に、会話力がまだ低い受講者には、覚え込むための本ではなく、「おしゃべりの辞書」として見てほしいことを紹介し、したがって、全てを覚え込もうとしなくてよい、必要な部分だけをピックアップして利用すればよいテキストであるということを確認しました。その後、実際の事例として、二世受講者と講師とのおしゃべりを10分程度聞いた後、受講者のコミュニケーション上の問題点を把握し、スクーリングでテキストをどのように利用して指導を行うか、またスクーリングと自学自習をどのように結びつけるかを考えました。2日目は、主に現在「おしゃべり話題」コースを指導している講師を中心に、受講者の様子や指導の実際における自学自習、テキストや課題の扱いなどについて意見交換を行いました。

・高齢受講者への対応:

 1日目は、まず学習を続ける高齢受講者の特徴を紹介しました。また、高齢受講者へのインタビュー映像から、受講者自身の学習に対する考え方や学習者タイプを概観しました。その後「続・入門日本語文法文型A」コース※を受講中のAさんの事例(受講中のコースが少々難しく、「覚えられない・難しい」と常に学習に不全感を覚えている)における対応を考えました。Aさん向けに、学習項目を絞り、テキストの会話をアレンジするという活動も行いました。2日目は、提出課題の位置づけや扱いについて考えました。その後、参加者間で担当している高齢受講者の状況を共有し、対応について意見交換を行いました。
受講者は「テキストにあるものは全部やらなければ」と思いがちですが、そのような思い込みを緩め、1人1人の状況に合わせて学習目標を調整していくことも、不全感を軽減することに繋がると思われます。今回の研修会では主に学習内容が受講者のレベルに合っていない場合を考えましたが、高齢受講者もいろいろな方がいますので、1人1人の状況においてその受講者のためになる学習とは、その受講者が精神的に充足できる学習とはどんなことかという観点で、受講者本人と目標を確認しながらスクーリングでの対応を考えていく必要があることを確認しました。

※ 当センターのサイトで使用教材のサンプルがご覧いただけます。「中国・樺太帰国者のための日本語通信教育『遠隔学習課程』」という水色のバナーから各コースにお入りください。


遠隔学習課程「自己表現作文コース」より

 日本語遠隔学習課程の「自己表現作文コース」を受講し、講師と共に書き上げた王兆生さんの作文をご紹介します。王さんは「中国残留孤児」の配偶者です。1991年、妻と共に妻のお父さんの元へ一時帰国したときの79日間を綴っています。
 昨年の12月に支援法が改正され、残留邦人本人が死亡した後も「配偶者支援金」が支給されることが決まりました。作文を読んで、帰国者本人をずっと支えてきた配偶者の方たちについても知っていただければと思います。

 

「初めての一時帰国」

 1991年6月18日に私達一家は、日本のお父さんのご招待を受けて、日本に来て親戚回りをしました。アルバムと日記を開くと、最初に来日したときの情景が目に浮かんできます。
その時、お父さんはもう73歳になっていましたが、とても元気でした。私達一家を歓迎するために、たくさん妻の親戚やお父さんの友だちが東京、大阪、豊橋市周辺からわざわざ大清水町にあるお父さんの家に来てくれて、温かい歓迎会を開いてくれました。
 「日本にいる間、私は何をすればいいのか?」と思って、妻と話し合いました。妻は私が仕事を探したいという思いに賛成してくれましたが、「お父さんと相談しなければならない」と言いました。来日前に日常使う日本語を少し勉強しましたが、日本語で交流を試みてもうまく通じませんでした。幸いなことに漢字があるので、互いになるべく日中で通じる漢字で筆談をしました。お父さんが紙に「兆生さん仕事不可、法律不許可。」と書きました。私はそれを見て「お父さんの家で3ヶ月、ただで飲み食いをするのか」と思い失望してしまいました。
 娘はお父さんの許可をもらってから‘研修中'の名札を胸にかけて、やる気満々で、おじさんの会社に仕事をしに行きました。妻は、家庭料理が上手なので、買い物や料理を全て引き受けたのも当然で、とても嬉しそうにやっていました。日本に来ても、倹しく暮らすのを忘れず、簡単な日本料理を勉強しながらも、なるべく中国の家庭料理を作りました。節約できる金は一銭でも節約して、なんとかしてお父さんの負担を軽くしようとしました。食事の時、お父さんはいつも「ご飯はたくさんあるから、遠慮しないで、いっぱい食べなさい」と愛情をこめて言われました。私は「やはりやさしいお父さんだな」と思いました。
 お父さんが時々台所に入って来て、妻が料理するのを見ていて、「まだ?」と聞くと、妻は笑いながら「まだ。」と答えました。二字だけでも、交流できました。お父さんに料理をすることは、妻にとって、実に願ってもないことでした。自分の娘が作った料理を食べられるとは、お父さんにとっても全く夢にも思っていなかったことかもしれません。親も娘もいつも嬉しそうに笑顔でした。私はその様子を見ていて、幸せだなと感じていました。(私も孤児ですので)
 しかし、この時私は、「これから何をすればいいのか、毎日何にもしないでぶらぶらしているのか、お父さんは何にも言わなくても、とにかく自分の食費は自分で解決するべきだ」と気持ちが焦り、いらいらしてしまうと同時に、たいへん恐縮してしまう思いがありました。
 お父さんの家は通りに面した3軒の平屋で、昔は商店でした。後ろにまだ5軒ありました。広い庭にたくさんの樹木や芝生や花が植えてありました。そして近くにまた別の敷地があり、いろいろな野菜がいっぱい栽培されていました。父1人で住んでいると思うと、いっそうだだっ広く見えました。そして、私は「あちこちに仕事があるじゃないか、掃除だけするのに1人必要だ」と気づいたのです。それから毎日部屋の中も外もすっかり掃き清めました。廊下は長くて、思わずテレビ小説《おしん》の中の主人公「おしん」を思い出し、少女時代の「おしん」の様子をまねて雑巾で床を拭きました。思いもよらなかったのは「おしんさん」が子供のときにした仕事を、私は51歳で、自ら体験できて、本当に楽しかったです。お風呂の順番は、お父さん私、娘、妻でしたが、浴室と浴槽の掃除は、私の仕事でした。掃除以外、自分で仕事を探し、片づけるべきだと思うことは、何でもしました。倉庫から大きいはさみを探し出して、芝生を短くし、樹木を元の形にきれいに整え、庭園の周りの樹木で、作った塀もはさみできちんと整えました。そしてお父さんと一緒に野菜畑を地ならししました。毎日忙しかったです。それでも日本語を勉強する時間や日本の音楽を聴く時間はたくさんありました。日本の音楽が好きになったのはそのときからです
 そして、一番楽しかったのは、父と一緒に犬の散歩に出かけることでした。その犬が大きくて力強くて、毎日午後の散歩時間になると、大きい声でうるさく「ワンワン」と鳴きました。犬が前を鳴きながら走り、私とお父さんはそれについて走りました。うちから約300メートルのところのゴルフ場のところに来ると犬はやっととまります。犬が遊んでいる間に、私はゴルフをやる人を見ていました。(90年代、中国にはゴルフ場があまりありませんでした。) 30分ぐらいして犬がゆるゆる家に帰る途中で、私はできるだけ日本語でお父さんと話しました。
 日本でのいろいろな予定はお父さんとおじさんが、早くからすでに計画をしていて、日程がカレンダーに書いてありました。お墓参りや、幼稚園・小中学校の訪問、市長との会見、名古屋と東京への旅、大清水町のお盆、豊川市の祇園祭など多彩な活動に参加しました。
 しかし、全て嬉しいことばかりではありませんでした。8月23日に敬愛するおばさんが突然逝去されました。その後の生活はなかなか意気が上がらなくなり、9月4日、最初の計画より早めに帰国することになり、79日の日本の生活は終わりました。
 今は、妻、お父さん、東京のおばさんとおじさん、妻の大阪のいとこ、豊橋の2人のおじさん、皆相次いで、亡くなってしまいました。
 過ぎ去った忘れがたい最初の日本での生活をいろいろ思い出すと、この上もない懐かしさが自然にわき起こります。でも、さらに私を襲うのは、いなくなった人々に対する深い悲しみです。

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