『地域日本語教育研究会』(神奈川、福島地域の日本語ボランティアを支援するためのネットワークとして96年に発足)では、昨年、福島県国際交流協会との共催で、「日本語支援活動を異分野からの視点で考える」というテーマで研修会を行いました。一回目は「コミュニティ心理学」、二回目「精神医学」、三回目は「社会教育」の視点からでした。このうち、昨年11月に行われた「精神医学」の視点からの日本語支援について、今回、主催者と講師の先生の許可をいただきましたので講演内容をご紹介します。

精神医学と外国人支援

国際ボランティアセンター山形(二本松会上山病院)
五十嵐善雄



1.はじめに

 精神医学の社会への貢献は、これまで病院や診療所の中で行われるいわゆる患者を対象としての治療行為がその中心でした。稀に保健所といった公的機関において薬物を用いない相談という形での活動もありますが,それもまた医療行為の一つと言っても過言ではないでしょう。このように精神医学の貢献は,限られた狭い範囲の中で行われるものでした。国民皆保険制度で守られている医療行為は,受療行動といった利用者の主体的行為があり,医師の診察の元に診断され,その診断に則って治療行為が行われるという手順を取ることによってのみ行われるものでした。このことは医師に相対することによって,患者としてのレッテルを貼られることでもありました。しかし,近年の震災での被災者や虐待や犯罪の被害者といった人々の出現は,対象者を病気を抱えた者として診断治療を行うことが出来ない事態に精神医学は遭遇することになりました。すなはち精神医学の知識を,もともと健康であった人々の耐え切れない過大なストレスに被爆した人々を対象に支援の道具として提供するという新しい医療の枠組みが求められるようになってきたことを意味します。精神医学の社会的行為の必要性は,経済的な裏づけが乏しいだけに未だ活発に議論されれるまでには至っていないことが現状です。そのような状況の中で私なりにボランティアの一員として,山形に在住する定住配偶者(外国人花嫁)支援を行ってきました。このような経験を元に私の学んできた精神医学が,日本語習得援助のためにボランティアとして活動されている皆さんに幾ばくかの後方支援として寄与することが出来ればと思いまとめてみました。

2.臨床経験から

 私は,精神科医としての臨床の殆どを,精神分裂病者の社会復帰に費やしてきました。そのような観点から外国人支援に関わるいくつかのお話しをさせていただきたいと思います。

 一つ目はコミュニティについてです。臨床的な立場からコミュニティを語る時,ただ単にコミュニティを「地域」と翻訳してしまいますと、欧米の論文の趣旨に合致しないように感じます。一人の精神障害者が,どのくらいのコミュニティを持っているかと表現するほうが理解しやすいように思います。要するに自分が支援してもらったり、甘えたり出来るコミュニティがどのくらい豊かであるかということです。孤立無援で生活している精神障害者に豊かな人間関係や社会資源との出会いを促進させてあげることが精神科リハビリテーションの眼目でもあります。話は変わりますが,山形にいて感じることは,ボランティアをする人に女性が多いこと,そしてその多くは県外から嫁いで来たり,夫の転勤に伴って転居してきた女性が多いように思えます。転勤してきたとしても,男性には仕事がありますから,地域社会になじむ以前に自分のコミュニティやネットワークを比較的容易に育むことが出来ますが,女性は大変です。小さな子どもがいたら尚更大変になります。隣近所の付き合いから子供の通う幼稚園や保育園での母親同士の付き合い,微妙な方言の言い回しや風習の違いに直面させられます。県外から来た人が必要とされる手っ取り早い方法は,そういった微妙な文化や価値観の違いを乗り越えて,一つの共通の目的のためにボランティア活動をすることは,自らを必要とされる欲求を満たしてくれるのではないでしょうか。そこには上下関係もなく,年齢差を問わない,様々な思いを投入できる活動の場があるのではないでしょうか。かつて薬剤師をしており,現在日本語習得援助をしている女性がこんなことを語ってくれました。「薬品と睨めっこしているよりも,人が変化し成長していく姿を見られる方がずっと生甲斐を感じることが出来るもの」と。主婦として家族にのみ必要とされることは,空の巣症候群の準備状態と言わざるを得ないでしょう。外国人花嫁が、地域社会に軟着陸するために,彼女たちが根付き易い様々なコミュニティを準備してあることは大切なことなのではないでしょうか。そういったことは,詳細に観察すれば,山形に多くあるように三世代同居に嫁いで来た花嫁さんにも共通した課題であるとも思えるのです。女性のボランティアが多いのも,家を離れ,自らの社会性を実感するために必要な場、コミュニティといえるからかもしれません。

 二つ目は、Cultural Bound とCultural Free という二つの立場です。前者は,文化に結合された状態ですから,相手の文化を熟知した上で精神科的治療関係を結ぶことを言います。後者は,相手の文化を全く知らずに,相手の文化に規定された言動をそのまま受け入れ,こちらが理解できないことを理解できないとして相手に学んでいく治療関係です。言葉を代えれば,日本にやって来て母語と同じくらいに日本語を理解できるようになったときに,私たちのために通訳者として仕事をしてくれるようになった人々と私のことを考えれば理解しやすいでしょう。母語で話し合える関係,微妙な言い回しや断定の仕方を無意識に共有できる関係を,Cultural Boundと呼び,通訳をしてもらう私達は,彼等の価値観や文化を全く知らないまま話を聞いていきます。そういった私たちも日本という文化に囚われて生きていますから,意識的に私達は日本の文化や価値観を消しながら会話に参加しなければなりません。例えば韓国の人はお客様が家に来た時,家で楽しんでもらい,いつまでも家に居てもらうために靴を家の中の方に向けて揃えます。日本では全く逆に,お客様のために帰宅するときに靴を履きやすいように配慮するために,靴を外向きに置くことが気遣いであると信じ込んでいます。韓国の人たちは,日本的な靴の置き方をされると早く帰れていわれているように感じてしまうようです。Cultural Freeという姿勢は,この二つの文化の双方に組しないという姿勢です。皆様のことですから,そんなことは当然のこととして理解しているでしょう。しかし,実際の場になると結構,葛藤や対立の源になっていることが多いように私には見えるのです。文化に拘束されない自由な発想ができる人であれば,まず相手に対して自分が理解できない行動の意味を問うでしょう。「何故靴の先を家の内側に向けるか」という問いと,「靴の先を内側に向けるのはなにか意味があるのですか」という問いには,その後の会話がいかに豊かになっていくかお分かりいただけるのではないでしょうか。Cultural Free という立場を維持することは,外国人だけではなく日本人同士の間でも人間関係を豊かにするのではないかと私は考えています。

 三つ目は,私達は,育った文化が皆異なるのだという考え方を持つということです。同じ日本人でも,その人の育った家族風土や価値観が異なれば,異なった考え方を持つのは当然です。異なった生き方や考え方をしている人々を認め合う社会が,現在の日本に求められていることなのではないでしょうか。例えばこんな話があります。90歳を超えたある老人に対して地域の民生委員が,生活が大変そうだからホームヘルパーを派遣しようかと薦めたところ,その老人に怒られ,困って私のところに相談に来ました。取り敢えずその老人にお話を聞いてみると,「ホームヘルパーなんてやめてくれ,自分は一人でも十分に生活できる。自分の両親と妻を自分ひとりで見送った。自分のことについては,隣の人にお願いしてある。毎朝,隣の家に声をかけ,自分が元気であることを伝えることにしている。もし,自分が声をかけなかったら,死んだと思って欲しい。生前から戒名をもらっており,お寺にも葬式代を渡し,隣人にもお金を渡してある。永代供養も済ませてある。自分は,誰かに看取ってもらおうとは思っていない。新聞が孤独な独居老人などと書き立てるのはおかしい。一人で死を迎えたいという人間がいたって良いのではないか」と反論されたのでした。その老人に出会って私は,はっとさせられたのでした。同じ日本人でさえ,同じ考えをもって生きているとは限りません。話してみないとわからない,人間は皆言葉の通じない外国人のようなものだという話を,精神科医の先輩にしたところ,彼は「同じ言葉を話していても,人間はエイリアンではないかと思うほど千差万別だ」と答えてくれました。長年連れ添った夫婦でさえ,ひょんなことから離婚の危機を迎えたりすることを考えれば,我々は皆異なった文化や習慣をもって生きているのだということを意識しすぎるということはないのではないかと私は思うようになりました。

3.伝達か対話か

 ブラジル出身の識字教育者に,パウロ・フレイレという人がいます。「伝達か対話か」という彼の有名な著書を読んだことがある人もいるかもしれません。彼は,ブラジルの都市のスラムで生活する人々に言葉や文字を教えていました。ある日彼が使っていた教科書に「ぶどう」という文字が載っていましたが,当時のスラムに住む人々はぶどうを見た人がいないことに気がついたのです。ぶどうを見たことがない人にぶどうという単語を教えて何の意味があるのだろうと彼は悩んだのでした。その次に彼が試みたのは,スラムに生活する人々の生活の中にあることを教材に持ち込もうとしたことです。何故全自分たちはこんなに貧しいのか,自分たちが今欲しいのは何なのか,自分たちの生活を語ること,そして批判的に捉えていくことが言語を習得するためには重要なのではないかと彼は考えたのです。スラムの人々が物乞いをしている姿や盗みをしている姿,泥水を飲んでいる姿を絵に描いて彼等に見せたのでした。彼等は,その絵を見ていろいろ感じたことを表現していきます。その過程においてフレイレは,彼等に文字や言葉を正しく教えようとしたのでした。こういた彼の試みは,革命的に見え,当時の政治家からは批判分子として認識され,彼は国外追放の身となってしまいました。

 パウロ・フレイレの本を読みながら,私は無着成恭のことを思い出しました。無着のことを知っている人は少ないかもしれません。彼は,戦後間もない頃に私が働いている山形県の上山市の最も雪深い村の小学校と中学校の先生として赴任してきました。その村の生活は,今でこそ道路ができて町から近くなりましたが,冬になると道路は雪で分断され,生活も大変な状況でした。そんな村でしたので第二次世界大戦中は,沢山の移民団が結成された村の一つでした。戦後の経済が不安定な時期に子供たちは三度の食事さえままならない状態で生活しており,彼はその生活を見て苦しむのです。自分の力だけではこの状況を変えることが出来ないと気づいた彼は,子どもたちにその生活状況を作文にして書かせたのでした。「生活綴り方教室」と称して,子どもたちの書いた作文を有名な「機関車」として文集にまとめました。無着の生き方についてここでは議論するつもりはありませんが,物事を批判的に捉え,そのことを言語化するという作業は,フレイレの作業と極めて共通する点があるのではないかと考えさせられました。子どもたちが,何故こんなに貧しい生活を強いられるのか,何故ここにいなければならないのか,今読んでも臨場感の溢れる文章ばかりです。

 ところで私が何故このようなこと語ろうとしているか,お話しなければなりません。私の配偶者も,皆さんと同じように山形に住む外国人配偶定住者,すなはち外国人花嫁の日本語習得援助のためのボランティアとして働いています。山形県内各地で開催されている日本語教室にボランティアとして働き,夜遅く帰宅すると食事の席で彼女からその日の教室で聞いた外国人たちの不平不満を聞かされることになります。舅や姑のこと,愚痴を聞いてくれない夫や育児に不安を抱く彼女たちの生活上の困難が矢継ぎ早に語られます。片言の日本語で自らの生活の行き詰まりを語る彼女たちの姿に,言語を習得することの大変さと同時に,文化や生活の違いを肌で感じている彼女たちが,日本語の教材以上に生活を語ること,そして生活に学ぶことを行っていることに気づかされます。そして,何よりも彼女たちのそうした悩みが,日常診療の中で聞く日本人の女性たちの話と何ら変わることがないことに私は気づかされます。日本語習得援助のためのボランティアとして働く皆さんであれば,大なり小なり同じような体験をしたことがあるのではないでしょうか。コーヒーブレイクの際に彼女たちが口にするのは,生活する上で困っていること,いやなこと,つらいこと,子どものこと,夫のこと,ばあちゃんやじいちゃんとの付きあい方,様々です。しかし,こういったテーマは,彼女たちの問題だけではなく,日本人として生活する皆さんにとっても共通の話題ではないでしょうゥ。物事を批判的に捉え,その現実をリアルに語ろうとする時に,言葉は獲得されやすいのではないでしょうか。無着の弟子たちには,優れた評論家が輩出されたことは頷けるような気がします。

 私たちの多くは,長い時間をかけて英語を勉強した体験をお持ちでしょう。しかし,これだけ時間をかけて英語を勉強したにもかかわらず,英語を話せる人はいったいどのくらいいるでしょうか。言葉を話すという切実さを,日本人は体験したことがないのではないかと私は思います。言語を習得しないと生きられないという切実さの体験の乏しさは,日本人の社会性や世界観を押し広げない要因になっているのではないかとさえ思える時があります。日本語を教えるということは,自分たちが空気のように思っていた日本人の常識を,もう一度振り返ってみる良いチャンスになるのではないかと私は思います。しかし,外国人の生活上の困難は,皆さんが日常生活で直面してる困難と何ら変わったものではなく,むしろ皆さんが日ごろ無意識化していた葛藤を浮き彫りにし,否応なくそれへの直面化を推し進めます。そういった体験は傷みを伴うこともあります。こういったお話をさせていただこうと決意した理由の一つには,出来れば皆さんにそういった傷みを乗り越えて欲しいという意識的な期待も込められているのです。その傷みを直視し,その解決を図ることが、皆さんの精神的な成長に大きな貢献となることを私は確信しています。

4.喪失体験としての「悲哀の仕事」

 喪失体験のことを,私たち精神科医の業界用語では,「悲哀の仕事」と言います。今日は,アメリカの小児科医でクラウスとケンネルという人たちが研究してまとめた図を持ってきました。身体的奇形を持って生まれた子どもを見た家族は,最初にショック状態となります。その次に,この子は我が子ではないという否認の時期があります。それでも看護婦さんや助産婦さんが,「あなたの子どもですよ,かわいがってあげなさい,きれいにしてあげなさい」とその子どもを連れてきます。よく見ると顔や睫や耳の形が自分や家族に似ていることに次第に気づかされるようになります。そうなると自分の子どもではないと否定できなくなり,我が子であることを認めざるを得なくなってきます。どうして私が,こんな奇形のある子どもを生まなければならないのかと、嘆いたり悲しんだり,恨んだりする感情の嵐の時期がやってきます。しかし,ある時期にふっと医者や看護婦さんを捕まえて,この子の奇形を手術で治すことが出来ますかと聞く時期がやってきます。そのことは,その子を我が子として受け入れ,少なくともその子の未来の人生において出来るだけ少ない障害を抱えて生きられるようにしようとする,受容と再起の時期に差し掛かったことを私たちに知らせてくれるのです。健康に生まれてくると思っていた我が子が,奇形を持って生まれてくるという体験は,親にとってもその子にとっても大きな喪失体験です。

 この例に示すように私達は,大事なものを失った時には皆同じような体験をするのです。癌の告知も同じです。失うということは,結婚することも出産することだって失う体験のひとつと言えます。何かを決断することは,それ以外の可能性を失って生きることを決意する姿に他ならないのです。私たちが,一生かけて行う悲哀の仕事は,命を失うことです。このように失うことなく一生を送ることは,避けては通れないことなのです。

 このようなことを考えれば,結婚もまた大きな喪失体験といえます。結婚によって何を失うかということを,こういった講演の際に聴衆に聞いたことがあります(その聴衆の殆どは女性でした)。実に様々なことが挙げられました。一緒に暮らしていたペットや家族,家,自分の名字,方言,中には味というのもありました。結婚は,その多くは幸福な側面のみを強調しがちですが,よく考えてみればこれだけリスクの大きな作業はないのではないかとさえ思えます。取り分け嫁ぐという女性の立場になれば,尚更です。さらにこれが,国や言葉を捨てなければならない外国人となれば,その不安はいかばかりのものか察しがつくでしょう。さらに出産や育児のことを考えれば,しかも言葉の通じない世界の中で行われることを考えれば,不安にならない方がおかしいとさえ私は考えてしまいます。現代の若者たちが結婚に関心を抱かなくなったのは,結婚に伴う女性のリスクが大きいことをどこかで感じているからなのではないでしょうか。結婚することの意味を,私たちはどこまで深く考え,男女平等の立場で考えているか,私はこのことを考える時,他人事では済まされないような思いにさせられます。

5.世代間伝達について

 育児という作業は,過去と現在と未来が集約される場でもあります。育児をしたことがないという人でも,育児をされたという過去の経験があり,子どもを持たされた途端に私達は自然に育児を行い始めます。そのことを乳幼児精神医学では直感的育児と言います。さらに育児をする母親(もちろん父親の場合も同じですが)には,目の前にいる実際の子ども(real baby) と共に、結婚する前に心に思い描いてた理想的な赤ちゃん(imaginary baby)の存在があります。そして,もう一つは母親が子供時代に持っていた自分の母親や父親との関係や兄弟間で起きる葛藤や競争などを無意識化した自分自身の子どもの体験を抱えた赤ちゃん(fantasmatic baby)という三つの赤ちゃん像が母親の心の中には存在します。こういった三つの赤ちゃん像を抱えながら母親は,育児をしているのだと言われるようになってきました。この赤ちゃんイメージが,時として母親が育児に疲れ果てている時に、母親の精神状態に悪さをするのです。こういった心理が,育児不安や虐待の原因になっているのではないかと言われています。少なく生んでリッチに育てるという現代社会の家族の風潮を考えれば,そして現代社会の歪んだ閉鎖的な核家族環境を考えれば,容易に母子は密着した状況に追い込まれ易いことは想像がつきます。父親不在と言われるのは,こうした密着した母子関係に楔を打つことや距離を置くための父親の役割の必要性が叫ばれているからでもあります。

 韓国では,子どもを出産した女性の血は穢れているとして大量のワカメを食べさせるという風習がまだ残っています。出産した娘に韓国からワカメが送られてきて,韓国人の嫁さんを貰った家族は、そんなことしなくて良いと拒否しました。また、赤ちゃんの足が冷えるからと夏でも靴下を履かせるといった台湾人の母親がいましたが,その日本人家族は靴下を履かせることを止めさせました。出産と育児というのは,女性の人生においてストレスの多い大事業でもあります。マタニティーブルーや育児ノイローゼといった巷で話題になっていることを考えれば,彼女たちもそういったストレスに曝される危険性を孕んでいることは,当然のこととして考える必要があるのではないでしょうか。私は,そういった相談がある度に,まずは彼女たちがやりたいように育児をさせてみることを勧めます。その上で彼女たちが不都合を感じれば,日本的な育児の仕方を受け入れていくでしょう。無理に強要するのではなく,彼女たちの悲哀の仕事の一つとして日本という文化を受け入れていく作業を時間をかけて待つという姿勢が私たちに求められるのです。最初からこうすれば良いという援助の仕方は,援助を受ける側のプライドやその人のアイデンティティを傷つける危険性があります。文化の伝達は押し付けではなく,共に学び受け入れていく相互作用なのではないでしょうか。

 2025年を境にして日本の老人は減っていきます。同時に,日本人の人口も急速に減っていくことは分かっています。少子化という打ち寄せる波は,日本という文化を継承する日本人がいなくなっていくことをも意味しています。若い人々が沢山子どもを生んでくれないと,日本という国は人口が減るだけではなく,文化を伝承する人々がいなくなることをも意味しています。古来より日本は大陸から文化を輸入し,そして日本という国に適応させるべくアレンジしてきたという長い歴史があります。様々な国から女性たちが来てくれるということは,彼女たちが持ってくるそれぞれの文化を断絶し,捨て去って来てくれるのではありません。私たちの人間の心には,それまで生きて体験してきた様々な記憶が織り交ぜられて揺れ動いているのです。過去の喜怒哀楽といった体験が生かされてこそ,私たちには未来を創造するという能力を発揮することが出来るのではないでしょうか。もしかしたら結婚という一つの作業は,互いが持つそれぞれの文化を融合させ,新しい一つの文化を生み出す作業の一つといっても過言ではないかもしれません。このようなことを考えれば,国家的交流の以前からこのような個人的な国際交流が基底にあって国際平和が論じられるということも出来るのではないでしょうか。そのために私たちに求められることは,相手の国や民族の文化や習慣を批判もなくまずは受け入れてみるといった姿勢ではないでしょうか。私が先述したcultural free といった態度は,こういった他の文化への態度のことを指します。このような姿勢を保持するために私たちに出来ることは,真摯に語り合うということでしょう。過去に行われた戦争によってもたらされた残虐な破壊や,それに伴う押し付け、さらに人間や民族の尊厳を傷つけ,そしてまた再び悲惨な戦争が繰り返されていることを私達は知っています。マジョリティである日本人が,マイノリティである彼女たちのプライドを傷つけてまでも日本という文化を押し付けることは,戦争の再現といってもおかしくないことなのではないでしょうか。そういった危機感を,市民の一人一人が意識していることが,日本人に求められることでもあるでしょう。

6.虐待と被害者支援ネットワークに学ぶ

 現在,日本では,ようやく虐待問題や被害者支援問題がクローズアップされてきました。精神科医たちも,こうした社会問題を無視できなくなってきています。私もそうですが,こうした現代の社会病理に対して精神科医がどのように貢献できるのか,ただ安穏と診察室の椅子にのみ座って患者さんがくる事を待っていることができなくなってきているのです。逼迫した状況であるだけに,行政も精神科医もその対応のために努力をしています。東京や大阪といった大都会で考えれば,虐待問題はその専門家へ,被害者についてはその専門家へと分業化することは可能でしょう。人口の少ない福島や山形では,そういった分業化は極めて困難なのではないでしょうか。また精神科医の人口の少ない山形では,一人の精神科医が様々な役割を担わなければならないことは仕方のないことだと私は思っています。いずれ若い精神科医が,こういった社会的問題に寄与できて,専門家として経済的な裏づけもある状態になるまで,私のような少し年取った精神科医が頑張らなければならないときなのではないかと思っています。

 外国人を受け入れるということは,人間という生身の存在だけではなく,その文化やその国と日本という国の歴史、日本という国の歴史や言葉を知ることにまで配慮することをも意味しています。虐待や被害者支援というネットワークつくりは,外国人の定住支援ネットワークと似通ったところがあるように私には思えます。こういった知識のある部分を援用することも,私たちの知恵の一つになるのではないでしょうか。そのためにも皆さんの近くにいる精神科医を,様々なチャンスを利用して皆さんの活動に巻き込んでいくことも皆さんの重要な役割ではないでしょうか。情報が流れ,知識を得た時,私達は無関心ではいられないです。それを無視した時,私たちは私たちでなくなるのです。

7.おわりに

 取りとめもなく話してしまいました。心に夢を持つこと,そしてそれを誰かに語ること,それを聞いた誰かがチャンスを運んできてくれること,そのチャンスをどう生かすかは,その人次第だと思います。エンパワーメントという言葉は,夢が現実化することでもあります。現実化することの繰り返しが,エンパワーメントとなることであり,私たちに自信を芽生えさせてくることになるのではないでしょうか。チャンスは,良く目を凝らしてみれば,皆さんの周囲に沢山転がっているはずです。それを見つけ出すか否かは,皆さん一人一人の意識の持ち方であるでしょう。ボランティアをして良かったという体験が,皆さんの仲間を増やす体験になればと思います。皆さんのご活躍とご健康を,山形から心より祈念しております。