遠隔教育の現状と可能性

任都栗 新(東京学芸大学)

1)遠隔教育の種類と目的

 遠隔教育は大きく3つに分けられる。まず一つは、放送教育などに代表される送り手側と受け手側が分かれた、しかし大勢の学習者を対象とした遠隔教育(以下「不特定多数を対象とした遠隔教育」とする)であり、もう一つは、手紙などの通信を利用した双方向の、しかし個人あるいはせいぜいが数人の学習者を対象とした遠隔教育(以下「個別遠隔教育」)である。この個別遠隔教育には同時性を重視しファックスを利用したりインターネットのメールを利用したものなどもある。そして最後は、通信衛星や電子会議システム等の技術を使った擬似的教室をつくり出す遠隔教育(以下「擬似教室の遠隔教育」)である。

 不特定多数を対象とした遠隔教育は、古くはラジオであり、またテレビによるものも多く行われている(以下この2つを「放送教育」とする)。ラジオ放送教育で利用できるのは基本的に音声のみであるが、テレビ放送教育では動画情報や静止画情報も利用できる。もちろんテキスト本などを併用すれば、予習もでき、しかも放送を見たり聞いたりしながら手元の文字を確認できるので教育効果が高い。近年はこうした電波を利用した放送教育の他に、ケーブルテレビを利用した遠隔教育(以下「ケーブル放送教育」)、またインターネットのホームページを利用した遠隔教育(以下「ホームページ利用の遠隔教育」)も始まってきている。こうした不特定多数を対象とした遠隔教育の目的は、第一には、学校などの機関に集まることのできない人にも教育を受ける機会を与えよう、というものである。学校に行くためにはやはり費用がかかる。また育児などで、通学して勉強する時間のとれない人もいる。しかし放送等により授業が電波に乗って自宅に飛び込んできてくれれば、費用の面でも、また外に出られない人にでも教育を受ける機会が与えられる。このように距離的な問題や様々な問題から通学が不可能で、優秀な講師の授業が受けられない、という地域的・肉体的その他のハンデキャップがなくなる。

 一方、個別遠隔教育では、古くは、手紙を利用した通信教育(以下「手紙による通信教育」)が行われてきた。筆者もゼミの学生にレポートを郵送させ、そのレポートの不備な点などを赤でコメントとして入れ、学生に送り返し書き直させる、というような形でこの通信教育を時々行っている。英語の手紙を真っ赤にして送り返してくれるアメリカ人の友人などは、ありがたい英語の通信教育の先生と言わなくてはならないのだろう。この、手紙による通信教育は、現在でもかなり主流である。例えば雑誌などを見ると「添削指導、なんとか、かんとか」というのがよく目につく。この添削指導では、テキストを学習者に送り、自宅で課題をやらせ、それを送り返させて添削する、という形式が一般的であろう。しかし遠隔地の学習者に対して手紙(宅配も含む)という手段を用いている点では手紙による通信教育の変形と言えよう。こうした手紙による通信教育では、教師と学習者は基本的に一対一の関係となる。そのため学習者個々のニーズや弱点に教育の焦点をあてやすい。また手紙というテキストデータだけでなく、音声カセットやCD、そしてビデオなども補助教材として利用する形式も最近増えてきている。インターネットのメールなどを利用する方法も、手紙による通信教育の変形と言えよう。さらに手紙という公的な通信手段を使わず、教授者あるいはその補助者が車などで個別に宅配する方法もある。この場合、学習者は手渡しで手紙や教材を受け取り、また自分がした課題を直接手渡しする。つまりこの手渡しの時に対面で(カタカナ言葉で言うならフェイスツーフェイスで)教師あるいは教育補助者に質問や考えを伝えることができる。この行動は教室活動でのものと短時間ではあるが同じようなものと考えることができる(「直接対面式通信教育」)。ただ手紙による通信教育および直接対面式通信教育を含むその変形版の欠点としては、手紙が届くまでのタイムラグが学習意欲をそこなう、といった問題がある。この、手紙による通信教育の弱点を補う方法として今塾などが注目している方法が、ファックスを利用した通信教育がある。「5分で〇×帰ってくる」という宣伝文句でも分かるように、タイムラグのない新形式の通信教育と言えよう(「ファックス式通信教育」)。

 最後に擬似教室の遠隔教育について考えてみたい。教室での授業は双方向である(はずである)。教師は一方的に話すのではなく、学習者の反応を評価し、学習者が分からないようなら言葉を補い、また学習者の理解を助ける副教材を効果的に利用して、授業を学習者中心に進めていく。学習者は教師の援助で主体的に学んでいく、つまり教師の言葉をそしゃくし、ただ知識を頭に入れるのではなく、考え、教師の言葉や教材の支援で理解していく過程を得る。こうした学習過程は、もちろん不特定多数を対象とした遠隔教育でも、個別遠隔教育でも可能であるが、それらの遠隔教育で可能とならないのが学習者相互の刺激である。教室では全員が自由に発言することはできない。例えば質問も順番にしていかなければ烏合の衆となってしまう。しかし教師によりコントロールされた質問の順番は、他の学習者、質問をしていない学習者にとっても、自らの学習過程の中に主体的に取り入れられていく。自分の気がつかなかった点や、自分とは異なったものの見方、そしてそれに対する他の学習者の反応、質問や意見に答える教師、それらが刺激となりより高度な陶冶へと進んでいく、こうした学習環境は残念ながら不特定多数を対象とした遠隔教育でも、個別遠隔教育でも積極的には求められない。確かにスタジオに学習者を招き、それを視聴者に見せることでそれらしい雰囲気は作れるが、それはあくまでもライブをテレビで見ているようなものである。場の共有という感情は出にくい。確かにライブの場には、スタンディングで手拍子を打つ、場の雰囲気があり、自分もその中ではハマリ切ることで場と一体になれる。祭りも、傍観者としてただ見ているのではなく、その場に身を任せて初めてその雰囲気が理解できる。教育も、やはり教室という共通の場で、教師と、自分を含めた複数の学習者がつくり出す場の教育力が重要である。そこで考えられたのが、遠く離れた場所間であっても、場を共有しているような錯覚を持てる擬似的な教室を作ろうというものである。例えば通信衛星を利用した遠隔教育(以下「衛星利用遠隔教育」)では、放送教育のように一方的な電波の飛来ではなく、スタジオの教師にも学習者の反応が伝わる、そして学習者にも他の学習者の反応や教師の息づかいまでもが感じられるような双方向性を出そうとしている。またインターネット等のネットワークを利用した電子会議システムを利用すれば、衛星利用遠隔教育のように莫大な経費もかけず、双方向性を動画レベルでも実現することができる。特に電子データ化された教材や課題は、電子ボード等の利用により場の共有が実際に可能となる。

2)それぞれの遠隔教育の長所と欠点

・放送教育

 これまで遠隔教育いうと、放送を利用した大勢の学習者を対象としたものがイメージされる場合が多かった。例えばラジオ放送を利用した通信講座などは馴染みが深い。この大勢を対象とした放送教育の利点は、不特定多数の学習者を対象とでき、また学習に参加するために求められる機器が少なく(多くの場合ラジオだけ、テレビだけでよい)、またこのため機器の習得もほとんど必要としていない点である。しかしこの放送教育の場合、当然のことだが学習者はテレビやラジオを見て学ぶ、つまり放送を利用することによる欠点も多かった。それは時間の制限であり、スピードの要求である。ただラジカセやビデオが低価格になりしかも操作も分かりやすくなってきた現在、これらの欠点は気にならなくなり、放送教育の可能性はさらに高まってきていると言えよう。かつては、放送を聞き逃したり見逃したりしてそこから挫折して学習をやめる例が多かったようだ。が、今ではその心配はまずないだろう。またカセットに録音したり、ビデオに録画することで、何度も繰り返して見ることも可能となる。放送を見たり聞いたりする場合は、聞き取れなかったり、見逃したりしても、内容は次から次へと進んでいくので、学習者はあるところにとどまることが許されない。つまり分かろうが分かるまいが、ともかく学習者は放送のスピードについていくことが要求される。かつての挫折の第二の理由がこれである。しかし録音や録画ができれば、学習者は自分のスピードで、しかも何度も納得のいくまで見たり聞いたりすることができる。つまり放送教育においても学習の個別化が可能となったわけである。また学習者が学習にかける経費についても、放送教育の場合は非常に少なくてすむ。例えば民放のものならば、(確かに自分が購入する品物の値段に広告経費として含まれてはいるのだが、消費者とすれば)タダで見せてもらっていると感じることもできる。こうした現状で見ると、放送教育なら学習者が中国帰国者の場合でも、周囲のサポートは必要だろうが、この教育の恩恵を受けることはそれほど難しいことではない。

 このテレビ放送教育は、歴史も古く、そのぶん教育効果についての研究が進んでいる。例えば「セサミストリート」などの例で見ると、アニメーションや人形を効果的に利用し、子どもたちのモチベーションを高めるとともに、繰り返し見せることにより学習効果を高める、次第に形が変わっていく視覚的おもしろさで注意を引くとともに記憶に残りやすくする、効果音とともに示すあるいは歌にすることで記憶に残りやすくするなどなど、様々な手法が取り入れられている。この「セサミストリート」は、英語の分からない日本の子どもが見ていても飽きない画面と音楽、そして動きがある。こうした手法は、日本の放送教育にも多く取り入れられている。しかし問題がないわけではない。それは経費がかかることである。このため残念ながら日本語教育の放送教育では教育効果の高い研究された手法のうちのいくつかしか利用されていないのが現状である。そしてその試みはさらに残念なことにあまり効果を出していない。テレビ放送を利用した遠隔教育では、経費が多くかかる。そしてその経費は、視聴率が高く維持されることによって出てくる。とするならば視聴者がそれほど期待できない日本国内での日本語教育にはそれほど予算が認められず、あまりその放送教育に教育効果を期待できないのはしかたのないことだろう。また不特定多数を対象とした遠隔教育の宿命として、個々のニーズに細かく合わせることはできない。この点でも多様化している国内の日本語学習者には対応できそうもない。ただ、周囲の支援者が放送の内容を吟味して、学習者にビデオやテープを貸し出すことで状態はかなり改善できよう。また日本語教育の場合は、ドラマやニュース、天気予報などの一般放送も非常によい教材となる。例えばニュースなどは一つ一つが短いので注意力が持続しやすい。そして、なにがどこでいつ起こったのか、といった質問シートを副教材として付ければ非常によい教材となる。放送されるものは、録音や録画して市販教材とすると著作権上問題があるが、個人で利用するには問題がない。放送教育というと完成された番組を考えてしまうが、学習者にあわせた支援者による手作りの教材のためのリソースとして位置付けすることも意義あることであろう。尚、付け加えになるが、欧米特にアメリカでは放送されたニュースやドラマを利用したマルチメディア教材が多く作成されている。放送されるものなみのクオリティーの映像を作ろうとすると多大な経費と技術が必要なる。その点リソースとして放送されたものが利用できれば学習者にインパクトある教材の作成が可能となる。またその教材で学習した人は、放送に対しても興味を持ち視聴者となる可能性が高い。著作権も重要だが、教育目的に対しては道を開いてもらえないだろうか。いずれにせよ、教材化の研究、つまり見せ方、タスクの出し方、支援システムのあり方、評価の方法などを研究し、その成果を示していかなければならないだろう。

・ケーブル放送教育

 公共の電波を利用した放送教育に対して、村の有線放送(学生時代、地方から来た友人の家に泊めてもらった時、朝、電話からいきなりラジオ放送が始まったのには驚いてしまった。しかも内容は非常にローカル。電話を使いたい時はどうするんだ?と何とも間抜けな質問をしたのを覚えている)に代表されるようなケーブル放送は、地域の限定という枠の問題さえ除けば、かなり有効な遠隔教育の方法だと言えよう。特に現有の太いケーブル回線が利用できることは、質の高いインターネット環境がすでにできていることを意味している。つまり不特定多数を対象とした遠隔教育でありながら双方向性を提供できる可能性がある。ただ、教育の内容、つまり中身(今風に言えばコンテンツ)をどうするか、という問題がある。

・ホームページを利用した遠隔教育

 イギリスやオーストラリア、それにアメリカ、カナダの大学で、特に語学教育で盛んに行われているのがこのホームページを利用した遠隔教育である。ホームページは今や第四世代に入ったと言われている。第一世代には、ともかくテキストデータが世界中で、しかも様々な機種に関係なく共有できることに意味があった。しかし第二世代に入ると、単にテキストが共有されるだけでなく、静止画の利用や色、フレームなどの利用で、魅せるホームページに注目が集まる。そして第三世代には、音声や動画といった、マルチメディア化が進められていった。そして現在は、CGIと呼ばれるホームページ上での双方向性を実現するプログラムを利用したホームページが多い。語学教育では、このホームページの第三世代からホームページ利用の遠隔教育についての研究が盛んになりだした。まず対象言語のテキストにタスクが付いたりヘルプ機能が付いたり、また一行ずつを音声で読みあげてくれるホームページが作られた。いわゆるリンク機能(単語をクリックすると関係付けした箇所やファイルに飛ぶ)を有効に使ったハイパーテキスト教材である。このうち特に音声読み上げは効果が高い。語学教育では単にテキストを訳す(GTM=文法訳読法)だけでなく、そのテキストを声に出して読むことが必要だと言われている。大航海時代からの、語学の天才と言われる人たちは、言語習得の一番の方法として母語話者による読みあげをひたすら聞く方法(シャワー法)をあげている。読んでもらうのは絵本でも新聞でも、ともかく何でも、意味が全く分からなくてもいいから母語話者に読んでもらい、そのサウンドを真似て大きな声で言うのが最高の学習法だと言っている、という話がある。しかし音読時に見本となる音声がなければこの学習法は利用できない。あくまでも対象言語を母語とする人が読んでくれるのを聞き、そしてそれを真似ることが必要なのである。その学習法をコンピュータ上でさらに洗練されたものにしたのが名作「おばあちゃんとぼく」である。このソフトの優れている点は、絵本のような体裁で、その絵の中に様々な仕掛けが隠されているところにある。例えば木のほこらをクリックすると、リスが効果音とともに走り出してくる、といったものである。こうした隠れた仕掛けは、特に子どもの好奇心を刺激する。そして絵本の文章はクリックすると、いかにもそれらしい声優の声でやさしく読み聞かせてくれる。これらの仕掛けがある日本語教材も、第三世代のホームページ技術を利用すれば簡単に世界中の学習者にオープンすることができる。しかもコンテンツ作りには、実践的な研究は必要であるが、それほどの経費を必要としない。競争の激しいイギリスの、コミュニティーカレッジや専門学校から昇格した大学、そしてオーストラリアやアメリカ、カナダの大学は、こうした教育効果の高いホームページをオープンし、その開発力を示すことで実践的研究の質の高さを示せる絶好の場所と考え互いに競っている。そして第四世代の技術では、例えば対象言語で書かれたテキストをホームページ上で送ると、大型コンピュータが単語帳を作って返してくれたり、自分の音読を録音したファイルを送ると、間違いの箇所を示してくれたり、将来的には作文の添削をCGIで行わせる実験も始まっている。日本では残念ながら、コンピュータリテラシー教育(パソコンの使い方を教えるといったもの)の先生方が、自分の教科書をホームページで示し学生はいつでもそれを参照させる、あるいはFAQ(よくある質問と答え)をリンクで分かりやすく出すといった第二世代的なものが主である。コンテンツの不足が教育の質を落としていると言えよう。その意味で実践的な研究を評価する土壌が必要であろう。

 このホームページ利用の遠隔教育は、学習者にまずインターネットに接続されたコンピュータと、そしてそのコンピュータを使えるリテラシーを要求する。この条件は、現在の日本ではかなり高い。まずハード的な費用が20万円以上要求される。次にインターネット接続による費用、つまり通信費が月2千円以上はかかるであろう。そして何より、パソコンを使うという高い能力(はたして能力と言えるものなのかは疑問だが…。今電卓を上手に利用していてもあまり「能力がある」という評価にはならないように、道具は使えることが大事なのではなく、使って何ができるかが大事だからであろう)が、あるいはその能力を持つ友だちが必要である。この要求の高さ、特に能力の面での高さは、高齢者ほどきつくなる。ただ、道具は技術の進歩と共に使いやすくなっていく。銀行のタッチパネルも、徐々にではあるが利用者の発想に合ってきている(あまりにも遅いが、そうした研究が評価されにくい土壌だからしかたあるまい)。とても10円なんとかのCMのように、手軽にそしてノートと鉛筆のように使うことのできる現状ではできないが(私はあの10円なんとかには、今でも泣かされています)、意外に黒船がやってきて状況が変わる可能性はある(ちょっとアナリスト的でしょうか)。

・手紙による遠隔教育

 何でもいいから書きなさい、私が直してあげるから、という形式ではあまり効果が期待できない。何かを書くということは、無から有を生じさせるということである。これは創造的な作業であり、苦痛が伴う。そして学習者の負担は非常に大きくなる。やはり「させられているうちに、気が付いた、分かってきた、理解していった」というタスク式の方が学習者の負担が少なく長続きもする。つまり教育効果が高くなる。そういう意味では副教材利用型、そして課題取り組ませ型の方が好ましい。また直接対面方式遠隔教育の方が、モチベーションも高くなる。単に手紙による遠隔教育という文字通りの理解ではなく、バリエーションを考えるべきであろう。そうした複合的バリエーションにより教育効果は高くなる。

 だが現状に様々な問題もある。まず副教材利用型と言っても、そのコンテンツがない。そこで前述のホームページ利用の遠隔教育を積極的に進め、コンテンツの充実を図ることが必要であろう。つまりコンテンツの充実のためにホームページ利用の遠隔教育とのリンクを図るわけである。前述のようにホームページ利用の遠隔教育は、確かに日本の現状では学習者への要求が高い。しかしこの遠隔教育は不特定多数を対象とした遠隔教育である。そしてインターネットは世界に開かれている。日本語教育の教材や素材は特に海外で入手しにくい。そうした海外へのリソース提供の意味がホームページ利用の遠隔教育を積極的に進める意義としてある。また振興の意味でも重要である。スペイン語やドイツ語、フランス語といった他の言語の充実ぶりと比べ日本語のホームページ利用の遠隔教育は目を覆いたくなる現状である。これでは習いたいと思う人の数を減らしてしまう恐れが大きい。さらにホームページで利用するテキスト、静止画、音声、動画等は電子データ化する必要があるが、一度電子データ化してしまえばデータベースの構築により二次利用は非常に楽である。そうした教材、素材を、この手紙による遠隔教育で二次利用するのである。形態は紙教材でもいいし、ビデオ教材でもいい。パソコンが利用しやすい学習者にはマルチメディア教材でハイパーリンクしたCD−ROMがいいだろう。

 さらに次の問題として、教室という場ではない、つまり生活の中である自宅などで行うタスクはどのようなものであればいいのか、また多様化する学習者のニーズにあうタスクとはどのようなものか、という点での研究はほとんど手つかずである点だ。
 所沢センターの使命として、こうした教材、素材データベースの構築と、実践的な教材と教育効果の研究があるのではなかろうか。

・ファックス式通信教育

 確かにファックスは現段階では非常によい機器である。なにしろ紙に書いたものを入れれば遠くの相手に届くのだから、これまでの使い慣れたツールの延長ということで理解しやすい。また文字化けなどの問題のあるパソコンと違い、手で書いた文字は相手にもきちんと届く。絵や写真を利用することも簡単である。ただ、問題がないわけでもない。まず音声や動画の利用が難しい。確かに音声は電話で、動画はテレビ電話で利用するという方法もある。しかしファックスで送ったテキストに音声を同期させることは不可能である。またその音声を学習者が何度も利用するといった使い方には、他の機器が必要となる。その意味では、パソコンの仲介を初めから考えた方がいい。パソコンを使うのではない。例えば紙の下にパソコンのタブレットを置く。そうすればファックスに入れなくてもタブレットのボタンを押せば書いたものが相手に届くとともに、自分と相手のパソコンにデータとして残る。文字認識はまだあまり使い物にはならないが(電子手帳で90%ぐらいか?実用には「OCR=工学的文字認識装置」で98%以上が必要と言われているから、まだまだというところ)、パソコンにデータが残るということはデータベースが作れ、二次利用も可能ということを意味する。電話の音声との同期(ハイパーリンク)もできる。写真などもファックスやスキャナーで読み込んで、一度パソコンを通して相手に送るようにすれば文字や音声とのリンクができる。こう考えていくと、手紙による遠隔教育の変形としてとらえているインターネットのメールなどを利用した遠隔教育に近くなっていく。つまりファックス式通信教育は、過渡期のものとしてとらえた方がよいかもしれない。教育に使った補助教材等は、電子データ化し、次の時代に備えることが必要である。まあ、今更述べなくても、現にファックスはパソコン用のプリンターとしても、またスキャナーとしても、そしてOCRとしても利用されていて、すでにファックスはパソコンの周辺機器の一部となってきている。つまりファックス専用機はワープロ専用機のような状態になってきている。

・衛星利用遠隔教育

 この方法は、国の支援がなければ不可能であろう。まず予算がかかりすぎる。そして現状ではその予算に対する効果が確認しづらい。それはコンテンツの問題であり、また教師の経験不足からである。例えばドイツで行われている英語教育のように、イギリスとドイツの共同事業のような形がとれれば、コンテンツの面などの問題は解消されるが、この例は、あくまでホームページ利用の遠隔教育の、研究の延長上にあることを忘れることはできない。とかく工学部主導で行われる傾向があるこの教育だが、ハードは質の高いソフトがあってはじめて価値がでてくることを理解する必要がある。

・電位会議システムを利用した遠隔教育

 この電位会議システムを利用した遠隔教育の前提としては、インターネット専用回線が自由に使える環境を持つ離れた二つの場所、というのが前提となる。非常に魅力ある遠隔教育の方法だが、衛星利用遠隔教育ほどではないにしろ環境面でのハードルは高い。例えば日本の大学とオーストラリアの大学間で、共同でゼミ形式の講義を開催する、などの方法があるだろう。日本からは日本語での講義をしそして学生も日本語で参加するという形式で、オーストラリアからは英語で、というイマージョンは、モチベーションを高めるという意味でかなり効果があるのではないかと考えている。とにかく実践研究が必要であろう。ちなみに電話回線2本分の太さがあるISDNを利用した東京−大阪間での公開実験では、それほどイライラもなく授業が行えた。所沢のセンターと、地方の二次センターが協力し合い、このシステムを利用すれば、研究の面でもまた教育の面でもかなりの効果が期待できるのではないか。ただ専用回線がない現状では無理はある。

3)まとめ

 以上述べてきたように遠隔教育は電子データとハイパーリンクの出現により大きな転換期を迎えている。これまでの紙教材と副教材のハイパーリンク、そしてそのハイパーリンク教材を放送教育のように世界中に開くインターネット、遠く離れた場所間を擬似的に同一の場とする技術、これらが、しかし教育効果を出すためには、まずリソース、コンテンツの充実が必要であるし、実践的な研究と、その創造的教育を支える発想を持つ教員の養成が必要である。そして著作権についての考え方等、これまでの枠ではない新たな枠作りが求められている。