私の半生―――日本と中国で


本文は一続きですが、長さの関係で以下のように分けました。

原作を尊重して(誤字誤表記を含め)できるだけそのまま掲載しました。

目次
1.幼年期(日本/東京と横浜)

2.中国広東省へ

3.内戦に巻き込まれる


後半部を新掲載しました!

4.文化大革命の時

5.1989年以後

6.祖国へ帰る

7.思うこと






 



1.幼年期(日本/東京と横浜)

 私の半生は非常に変化が多く、また日本と中国で生活した特別な例であると思います。

 私は6才まで出生地の東京都文京区本郷三丁目で母と一緒に心配なく暮らしていろんな

食べ物や紙模型の玩具や着物などを母が準備してくれたので何もほしい物はありま

せんでした。しかし母が時々聞かせたいろんな偉い人乃木大将の幼年時代の話しやよい子

の話しなどがとても聞きたかったのです。また私がこしかけに立って母がタタミに

横たわって「だんしは勇気を持って母チャンの腹に飛んでこい……」と母が励まして

母の腹に飛んでいきました。私は飛び終ってよろこんで笑ったり、母も笑ったりしました。

しかし母は涙が少し流れました。「母チャン……痛いのか。」「いいえ、よろこんでの泪だよ。

ハハハ……。」これが私の幼年時代の母と一緒の幸福な暮らしで一生忘れない思い出でした。

 昭和8年ある日、私(6才)は母に連られていつものように野菜市場に行くと、市場

は人で一杯でした。母は私に、いつものように裏口で待っているように言いましたが、

なぜか正午を過ぎても母が戻っては来ませんでした。ちょうどそこに養父陳礼烙が通

り掛かり「お母チャンが青菜を買ってから帰ります。」と言うので一緒に帰宅しました。昼

食後、私は玄関前で母の帰りを待っていましたが、一向に帰って来ませんでした。

ところで、母は市場の裏門で待っている筈の私がいなかったので「連れ去られた」

と思い込み、パニックに陥っていたのでした。母の二人の兄・叔父が「もしシナ

人と離れないのなら子供を奪うぞ」と時々威気高に言う言葉を思い出し、

買った物をかなぐり捨てて、涙を流しながら裸足のままで駆け戻って帰りました。
その時、私は何も分からないので母に向って「カアチャン」と言いながら飛びつ

いたのでした。母がすぐ私を抱き上げて店に入って台所で食塩を掴んで養父に

投げ付けました。「どうして、私の子供を奪おうとするの」と大声をあげて床に

坐り泣きました。すぐ店も閉めて午後、養父は従兄陳礼桂と黒い車で母を地

元の病院に入院させてしまいました。車の中で母が私を固く抱いて、「病院へは

行かないよ」と泣いていました。私は6才まで、母の膝元を昼夜、離れたことはあり

ませんでした。養父がすぐ台東区浅草馬道町二丁目へ引っ越しましたので私の二人

の母叔にも一回も会わないで私はかわそうな孤児になりました。

 

馬道町の近所のお隣さんは何時までも忘れない善良な人たちです。特に六軒の近

所には傘屋の長男で二才年上の荒田建一さんがいて、私を弟のように可愛がってくれ

ました。彼はよく人間はいかに生きるべきかなどと大人の話しをしてくれました。彼の妹

は久子さん(昭和20年3月10日の午前0時8分の東京大空襲で言問橋で亡くな

った。)が私と同級生で、一緒に宿題をしたことを覚えて、ご家族と一緒に食事をしたこと

もあり(今まで荒田さんとずっとよい友です。)よい隣人になりました。しかし他の同級生の

名前は皆忘れました。翌(昭和9)年に私の日本名ショウチャンから中国名陳相美に改

名し、浅草(現在創立128年)小学校に入学させました。一年生から三年生までの

女性の先生はいつも和服を着て(ノリヤ或いはイイノ)先生と呼び校長先生は大西

文太さんで、四年生の時は男の山田善作先生と呼び校長先生は小林茂さんで

した。この学校は運動場やプールや音楽ホールなどの近代的設備の整った「コの

字型」の三階建で、各学年には教室が二つずつ、50人ぐらいの児童がいました。先

生方は授業の他に時々児童を自分の家に呼んで歴史上の有名人物のことなどを

話してくれました。クラス児童たちも非常に勉強熱心で、喧嘩などをしたことはあり

ませんでした。

 

その当時昭和9年から12年ごろ日中両国戦争が始まった時代だったので社会

の生活は新聞やラジオやニュース映画など戦時色になり私やクラスメートたちの遊

び方も全く変わっていきました。例えば小学校で暇な時間に近所9才から12才ま

で20人ぐらいクラスメートと浅草公園で戦争の紙芝居を自転車の荷台から見た

り、小紙袋に白粉を入れて「爆弾」を作ってクラスメートを二組に分けて、手に「武

器」(短い竹棒や木棒や鉄刀など)を持って相手に「爆弾」を投げて戦争ゴッ

コしたり、夜になったら隅田川公園に行って戦争ニュース映画を見たり(ある時は松

屋の五階に行って映画ホールでニュース映画を見ることもある。)もしニュース映画

がない時には隅田川公園の暗い所で黒い校服を利用して隠れてお化けゴッコ

をしたりしていました。もし雨が降っている時には皆さんは焼鳥屋の増田さん(姉

12才・弟9才)の二階でいろんな遊びをしたりしていました。日曜日になったら

クラスメートを集めて(養父は私に毎日二銭だけ小銭をくれた)浅草観音寺の後の三

人神社寺のクラスメート(9才)ごとに20円のお金を持って出て皆パンや他の食

べ物を買って皆さんランドセルに入れて兵隊さんのように隊列して切符も買わ

ないで松屋二階の駅から電車に乗って田舎へ遠足に出掛けました。そこの田舎

の生徒さんとよい友達になって、持って来たパンや他の食べ物を分けて食べたりし

その時は生徒たち誰も腕時計がないので学校で勉強したように竹棒を地に立

てて太陽の影を見ながら一緒に遊んだり将来は兵隊さんになりたいと話した

り「三勇士」のように勇敢に生きると話し合っておりました。太陽の影が長くなっ

たら、すぐ電車に乗って浅草に帰りました。ある時は時間を忘れて夜12時ごろ

家に帰ることもありました。特に「日支事件」から私たちは手ぬぐいを持って通行人

や公園である歩く人たちに「千人針」をぬってもらったり、有用なゴミなど廃品の回収を

して国家に供出しました。夏休みにクラスメートは大人たちといろいろな旗を持って

浅草観音寺の前で、前線に行く兵隊さんを歓送して無事に早く帰ってくるよう

に祈って皆さんは手を挙げてバンザイ・バンザイと呼び掛けていました。学校

の宿題を学校で終った時、昼夜暇な時には一緒にニュースの話しをした

り遊んだりしてとても楽しかったです。しかし夜寝る時には母が懐しく母の写真を出し

て見て話したり私が心からよく母にめんどうを見てもらった事を思い出していました。

私が心から苦しい事を女先生に話しました。女先生は私の身の上を三年間ぐらい聞

いて大変同情し、私を養子として迎え入れたいと養父に申し出ました。昭和12年(10

才・小四)に、七冊目の教科書を勉強した時の男先生は山田善作と言います。先生

も女先生と一緒に養子にしたいと養父に何度も交渉しました。このご恩は一生

忘れることが出来ません。養父は私をとられるのを恐れて、ある土曜日の夜、突然

私を騙して横浜へ遊びに行こうと言って横浜に行きました。(学校の資料にはど

こに行ったか〃行方不明〃と書いてありました。)

2.中国広東省へ


 その時、横浜市の南京(今の中華)街に着いたら、ここに帰国準備している華僑

とその家族がたくさん待っていました。その前8月ごろ馬道町の私の床屋の二階に泊っ

ている華僑の陳金銀と(日本人)奥さんと息子(6才)タカオと娘(4才)スズミと次男(1

才)ゴミは皆、福建省羅源県へ帰国しました。養父と私は10月ごろに汽車に乗

って神戸港に着きました。すぐイギリスの貨物船に乗って(その時、上海は戦争だ

から)香港に着いて二週間ぐらいホンコン大華病院の倉庫に泊まりました。私たち

四十人ぐらいの子供が日本から集まって、あちこちで毎日ここのイギリス兵隊と日

本軍をくらべて見ていたりこの街と日本の街とくらべて見ていたりしていました。ここ

で初めて見たのはイギリスの航空母艦でした。同時に初めて見たのはここの人が鴉

片をのんで道に横になっているところです。

 

またしばらくイギリス貨物船に乗ってホンコン港を離れて広東省の汕頭港

に停まりました。大勢の華僑と家族が降りました。まだ福建省の厦門港に停

まって大勢の華僑と家族が降りました。この時、船に残った華僑と家族は

四十人ぐらいで、私の心は寂しくてどうしようもありませんでした。最後、福建省

の福州馬尾港の外海に停まりました。この時イギリス貨物船の船員(浙江省人

日本語も上手で)が養父と相談して私を船に残して彼らが養育して後で養父に返

すと話しました。ついに全部の華僑と家族が貨物船から小さい木舟に乗り換え

て馬尾鎮街に着きました。この馬尾鎮街は人口も幾万人足らず、しかし中国で最初

の鉄質で貨物船製造工場でした。近所の華僑と家族がすぐ各自の所へ帰り

ました。ただ福清県の華僑と家族だけ20人ぐらい馬尾鎮の三階の旅館に泊

りました。私たち6人子供が集まってあちこちで毎日街を見たり歩いたり、初めて

見たのはここの国民党の中央軍の兵隊が華僑老人をベルトを持って打ったこ

とです。一週間の後に私はついに養父の故郷、福清県高山鎮后安村に着き

ました。この福清県は半島のようで、水も足らずそれでも畑ばかりで「サツマイモ」と

「ピーナッツ」しかありません、冬になったら「干サツマイモ」でも食べられない大昔

から大勢の農民が一日二回しか食べられないような有名な貧しい地方でた

くさんの農民が海外へ移民しておりました。今は有名な華僑区と呼ばれています。

后安村で養父の5人兄弟は分家で畑を耕やしていました。しかし養父は畑も持

たず田舎で人口は少しだからトコヤも開業できないので日本から持ってきた荷

物を養父の継祖母に預けて高山鎮街でトコヤを開業しました。先項に

羅源県に帰った華僑さん陳金銀が生活は困っていて彼らの子女(タカオと

スズミ)二人を売って自分は日本軍隊で通訳して行きました。彼の日本人奥さ

んは病気中で、子供(ゴミ)と二人は養父が助けて家に連れていきました。この時

に私の家は四人で生活が困っていたのですが一家では安全に居住しました。

この高山鎮街は大昔日本で作った中華民国の地図で見れば福清県

は黒い字で書いてあり、高山鎮は赤い字で高山市と書いていました。昔の中

国の習慣で言えば市は県よりまだまだ大きく、今まで当地の人びとは高

山市と呼ぶ習慣でした。しかし実はこの市街は電気もなく水道水もなく自

転車もなく毎朝早くから農民は農産品を街に持って漁民は街に海

産品を持ってただ朝の市場ばかりだけの所でした。
半年ぐらいたって后安村においた荷物は泥棒(養父の次兄陳楊梅ア

ヘン常用者)に取られて、ある日の午後、日本軍の飛行機は鎮街を空爆して

町は破壊されてしまいました。養父は全家の安全のために、また后安村の田

舎廃寺「安福寺」に疎開して居住しました。養父は田舎でトコヤをしたり継

母と苦力をしたり毎日二回のサツマイモのお粥だけしか食べられないので東京の

銀行にも3000円ぐらいのお金しかないし、ついに乞食になってしまいました。

その前、昭和13年2月の時に私(11才)は東京の荒田建一さん(13才)に手紙を

出して困っていることを話しました。すぐお返事をいただいて「勇敢に生きて……

大人になったら東京に帰って……。」と言ったことを思い出しました。私は日本

男子としての誇りからどんなに貧しくても背筋を伸ばして生きていきたいと思い

異族の前に乞食は餓死しても絶対にできないのでした。
私(13才)は后安村から北側20キロメートル先の龍田鎮の西南方の七井

坑村、塘西村、鐘愴村などの豪農に年季奉行(年の報酬は25キロ米価値

で)として雇ってもらいました。三年間の報酬は75キロ米価値に決めてあったのに私

はいじめられて60キロだけしかもえませんでした。また毎朝ニワトリが鳴いたらすぐ

起きて牛や豚や一家全員の人びとの使う水を13才の私が天秤棒で井戸から担

いで家に来て余ったら朝イモのお粥を食べさせてもらい、すぐ山に行って畑を耕や

しました。食も山で食べて陽が落ちるまでよく働いて、また村から牛、豚、人び

との糞を担いで山の畑に運ぶのです。また他の子供が時々私をいじめて〃日本

鬼子〃と言われた。その時私は山に登って日本の方に向かって他人がいない時に

母の写真を見て泣いたりするだけで、とても悲しかったのです。これは13才から

 15才までのことで私は睡眠不足でその時にとても眠たかったのです。豪農との取決

めは必ず元旦の初日から年末まで働かなければならないというものでした。
15才の年末の日から豪農を離れて商売人に苦力として16才から私は25キロ

の貨物を天秤棒で担いで往復二日間で78キロメートル(福清県街蜊nR

鎮街)運ぶ仕事をしました。真夏はどんな暑い時で笠を買いたいがお金もないし丸

坊頭で全身ただ短いズボンだけで着物もないし草鞋も買えない裸足で少しずつ

歩いたり厳寒の冬はどんなに寒波でも麻袋で作った着物を着て満足しなけれ

ばならなかった。一回の運賃は米7キロでした。辛いがまだ豪農の作男より自由

でした。私は昭和12年11月から中国へ行って22年まで、その11年間には靴や

衣類も買ったことはないし夜に明りのために灯油を買いたいのにお金もないし

こんな苦しい悲しい生活は夢にも思いませんでした。

3.内戦に巻き込まれる



 

しかしその後は(1948年1月)中国では内戦がとても激しくなって更に厳し

い決定的一年でした。私のような日本人、養父も乞食をして当局が発給する中

国の身分証明書がもらえませんので、当局にいろんな理由を付けられては捕まり、す

ぐ丸頭に刈られて古い軍服を着させられて臂を縛られて厦門島の大生里の

所に集められて、毎日二回だけご飯をたべさせられました。また部屋の

中で走る訓練ばかりでした。ある夜に大型貨物船に乗って上海市外の呉松口

港に着いてすぐ汽車に乗ってこれから毎日三回のご飯が自由に食べさせてく

れました。ついに中国の内戦時期に三大戦役の一つ有名な淮海戦役に

送られました。(この戦役は国民党のいわゆる精鋭部隊が60万軍人またタン

クや空軍など参加して決戦をしました。共産党の部隊と民兵はどのくらいか参

加したのか分かりません、戦場の面積は何十県のようなとても大きい大規模な

戦闘でした)その時私は北方で使う普通話もできないし、中国字も分からないし、ただ

浅草小学で勉強した地図がよく分かって、それで南の方へ逃げた。国民党のA部

隊から逃げてまたB部隊に捕まり五回も捕まって最前線の黄伯韜兵団(この

兵団は五っ軍団の十五っ師団の兵力)に送られました。
北方の厳寒の冬、寒さひとしお身にしみる12月のある夜に共産党軍隊の爆

弾が私の左膝と右眼に当たって瀕死の状態になりました。深夜の寒気に目が

醒めて見たら双方の軍隊はこの戦場から離れました。生きている人一人もいないし、

私の傍には死体だけ残って私も片輪人になりました。そのような時、私は必ず

生きて福建省へ帰るという信念だけは持って家には養父たちが待ってるの

だと思いました。私は生きるために塹壕から外薬と包帯を拾って自分で傷口を

処理して道を這って行って、腹が減っても周囲の民家もないし、しかたがないの

で畑から人参を抜いてそのまま食べました。このように20キロメートルの道を這って

行きました。ついに徐州市に着きました。ついに徐州市に着きました。ここは鉄道の東

西南北の分岐点で戦略的要地の一つです。この街道にはいろんな難民が一杯い

るし、特に子供を連れている婦人たちや年取った老人はとてもかわいそうに見えまし

た。その市の青年路の街に大きい天主堂がありました。そこの職員はとても善良

な人たちで一生忘れられないのです。この人は陳兆明と呼びます。その時彼は

もう60才ぐらいで天主堂で仕事をしていました。私を見てすぐ助けてくれました。私

はそこで彼と親子のように一ヶ月ぐらい泊って、その時、徐州市から福建省の福

清県まで帰る道中長い各地の主要な所を通っていろんな国民党の軍隊が

たくさん守備についていてとても危ないので陳兆明さんが私に安全のために一時帰

らない方がよいと話してくれました。しかし一年もたって養父たちはどのようにしているか

と心配して帰ることにした答えました。それで陳兆明さんは私に綿入れと綿

ズボンと綿帽子、綿靴と毛布を買ってくれたりまたお金(6ドル)をくれました。

徐州市から南京市まで歩いていきました。ついに1949年2月に養父の田舎に帰

りました。私が家にいない時養父は胃病で家にもなんの食べ物がないのでつい

に継母は弟(ゴミ)を連れて可門島の養父の華僑の友だちの所へ行って100キログラム

の米価値で売られてお金を養父に渡してもらいました。しばらくして継母は平潭

島で海に投身自殺をしました。後、養父もついに餓死してしまいました。
1949(昭和24年)年の前半年は当地の福清県の国民党政府武装部隊と共

産党の地方民兵遊撃隊の敵対はとても激しくて私は養父の田舎で生活がで

きない上、また当局が時々私を咎めるので5月に田舎を離れて外地に行って

共産党の地方武装部隊に参加しました。しばらくして中国人民解放軍に理

髪兵として転入しました。軍隊を三年後に退役しましたがその時には、共産党

の内部は闘争がとても激しくて、たくさんの地方共産党的指導者が捕まりま

した。私はもう帰る所もないのでそのまま軍が経営する軍人用理髪店で働き、

1955(昭和30)年に女性理髪士陳恵英さんと結婚しました。
その時、私の日本語も皆忘れて(ただアイウエオだけ覚ている)中国字も分から

ないような文盲なってしまいました。私は日本男子としての誇りから、異国で長

期に暮らしてもし文化がない人は世の中に何も分からない「バカ」者と同じよう

だと思い、それから私はずっと軍の規律をよく守り、昼休みも日曜も返上

して働きまた、漢字辞典を使って一字一句を独学しました。漢字がよく分

かってからいろんな新聞を読んでおかげで世の中のいろんなことがよく分り

始めました。その後、私のような人はこんな複雑な社会でよく生活すること

はただ文化だけ分かったのではとても足らないと思って各方面の勉強をするこ

と、数学や自然科学や歴史など特に哲学を勉強することはとても大事だ

と思って真面目に独学しました。その時(文化大革命の前)高等生の教科書を

独学しました。軍隊で仕事をする時は、非軍人の工員は規律を特によく守り、

仕事を特によくして、政治課を特によく勉強して、民間の人たちとは特に謹

みぶかくつきあいます。また時々軍人と同じように政治運動、階級闘争も参

加するので(全中国には食べ物を抑制する時期で)食べ物が足らない時は自分

でわずかに生産しました。外で買うことは禁止でした。
(以下、準備が出来次第、掲載いたします。しばらくお待ち下さい。)