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ご存じですか中国残留邦人問題
中国からの帰国者に温かい支援を!

Q1:「中国残留邦人」とは、どんな人のことをいうのですか?

 先の大戦のあと、日本へ帰る機会を失い中国で暮らしてきた日本人の方々です。(日本から見て自国の人という意味で邦人と呼びます。)

Q2:中国残留邦人はなぜ日本に帰れなかったのですか?

(1) 終戦当時、満州国(現在の中国の東北地方)には、軍人の他に155万人の日本人が住んでいました。この中の27万人は開拓団として農業に従事していました。
 満州国の日本軍は、戦況のひどかった南方に、経験豊かな部隊を転属させたので、昭和20年にはその補充のため、青壮年男子の大多数は軍隊に招集され、残った家庭は老人婦女子が主体となっていました。

(2) 昭和20年8月9日、ソ連軍の北の国境からの突然の対日参戦で大混乱となり、日本人は安全な地を目指して避難しましたが、鉄道沿線から遠く離れた地にいた人達、主として開拓団の老人婦女子たちは、着の身着のまま、徒歩で、何日も何日も銃撃に逃げまどいました。中には集団自決する人たちもあり、逃避行中には、極限の疲労と飢餓に苦しみ、伝染病も発生して、死亡者が続出するという悲惨な状況に遭いました。

(3) このような混乱状態の中で、肉親と生別、死別した幼い子供で、中国人養父母に育てられた人たちを中国残留孤児と呼び、混乱が沈静化しても、家も職もなくして衣食にもこと欠き、中国の厳しい冬を前にやむなく中国人家庭に入った婦人たちを残留婦人等と呼び、これらの人々を「中国残留邦人」と総称しています。

Q3:残留邦人は中国だけですか?中国残留邦人の帰国はいつからはじまったのですか?

 昭和20年8月の終戦後、海外にいた600万人余の日本人(軍人、軍属、民間人)は、一斉に日本へ引揚げることになり、昭和25年頃までに概ね終わりました。満州を除く中国本土からは、20年11月から21年末までに約49万人が引揚げ、概ね終わりました。
 満州からの引揚は昭和21年5月から始まり続々と帰国したものの、昭和23年8月には中国の内戦が激しくなり中断しました(前期集団引揚)。
 昭和24年10月に中華人民共和国が成立し、日本とは国交のない国となったため引揚中断状態は続きました。
 昭和28年3月から、民間団体を窓口に引揚が再開され(後期集団引揚)、33年7月までに3万3千人が帰国しました。
 これは、新中国に要請されて家族ぐるみで残っていた技術者たちが主体で、中国人家庭で育てられていた孤児たちや中国人との家庭を築いていた婦人たちは、ほとんど帰国できませんでした。
 後期集団引揚のあと、日本赤十字社を通じて帰国旅費を送り個別に引揚げる方法が細々と続きましたが、昭和47年の日中国交正常化と翌年の日中航空協定で、個別に大量の帰国が始まりました。
 成人した孤児から自分の身元を調査して帰国させて欲しいとの要望も届けられ、国はこの調査を始め、身元の判明の有無に関わらず帰国の道を開きました。
 残留婦人たちも初めは永住帰国する人と一時帰国を望む人に分れましたが、平成に入ってからは、子供の独立や配偶者との死別を契機に日本へ帰りたいという人が増えました。
 なお、後期集団引揚までの人を、引揚者といい、その後の個別引揚者からは残留邦人という呼び方が定着してきました。また「引揚」と呼ばず「永住帰国」との呼び方も定着してきました。
 中国以外では、樺太においても、少数ですが、中国残留婦人等と同様の方々があり、樺太残留邦人と呼びます。

Q4:中国残留邦人の帰国の状況はどうなっていますか?

 残留婦人等(婦人だけでなく約1割の男性もある)の帰国は、国交正常化直後がピークで、平成6〜8年に2回目のピークがありました。
 残留孤児の帰国は、昭和62年から平成2年をピークに、なだらかな減少傾向にあります。
 これまで、約6,600人(家族を含めて2万人余)が帰国し、今では200〜300人程度の方が残留しています。この中には、近々帰る予定の人もありますが、もう帰国しないという方と、本人が帰国したくても家族の意見がまとまらず悩んでいる方もあるようです。

Q5:では、残留邦人問題は終わったのですか?

 いいえ、残留邦入の困難は、むしろ帰国してから始まるのです。
 終戦直後の引揚者はもちろん、後期集団帰国の方々も中国社会で生きてきたとはいえ家族間での生活は日本語、日本の習慣を失わずに生活していた方がほとんどでした。しかし、残留邦人の場合は違います。
 残留婦人たちの家族は、中国人です。婦人たちも日本人であることを押さえて生きてきました。婦人本人は日本語を話せるにしても配偶者や子供は全く中国文化圏の人です。幼くして中国人養父母に育てられた孤児は、血統的には日本人であるとしても、本人はじめ家族ともども、言葉、習慣、価値観まで全く中国流なのです。
 日本語の習得をはじめ、日本社会に適応して行くには大変な努力が必要です。そして初めて接する社会への適応は、年齢に反比例することが検証されており、中高年になって帰国した孤児や配偶者は、5〜10年の間、悪戦苦闘することになり、なかには20年経っても話せない、適応できないという人も見受けられます。
 また、戦後60年をすでに超え、帰国者もほとんど高齢になりました。日本語未習熟、適応不十分のまま老後問題を迎える人達には、一般の高齢者施策に加えて、新たな施策も必要になってきています。

Q6:では、国はどんな施策を講じているのですか?

 国では、孤児の身元調査をはじめ、帰国旅費の負担、身元引受人のあっせんを直接行うほか、帰国直後には定着促進センターでの日本語と生活習慣の研修を中国残留孤児援護基金に委託して行っています。
 地域社会に定着してからは自立研修センターや支援・交流センターでの日本語教室や就業相談、交流事業、定着促進センターの講師陣による全国規模の日本語通信教育、地域社会における日本語学習支援、支援通訳や巡回健康相談を、地方公共団体や公益法人を通じて行っています。
 さらに平成20年4月からは、帰国した方々の老後の生活の安定を図るため、「新たな支援」として年齢等一定の条件を満たす方に対して、満額の老齢基礎年金を支給し、それでも十分な安定が図られない方には必要に応じて支援給付(生活、住宅、医療、介護)を行っています。

Q7:中国残留孤児援護基金では何を行うのですか?

 私ども中国残留孤児援護基金は、昭和58年4月、孤児や婦人たちの帰国後の自立に向けた援護事業を、民間各方面の支援を得つつ、国の施策と協調しながら進めていくために設立された団体です。
 中国帰国者定着促進センター(所沢)及び首都圏の中国帰国者支援・交流センターの運営、集団一時帰国受入等を国の委託を受けて実施していますが、このほか、民間各位のご支援を受けながら次のような自主事業を行っております。

《援護基金の自主事業》

1. 中国養父母への扶養費の支払い援助(援助額は国と折半)
2. 帰国者とその家族(三世まで)への就学援助
 (1) 貸与型(専修学校生、大学生)
    (高校生は国の無償化制度により中止)
 (2) 給付型(ホームヘルパー等養成講座)
3. 帰国者の老後支援事業(帰国者が利用する介護保険事業者への支援)
4. 戸籍回復援:助事業
5. 中国養父母お見舞い訪中援助
6. 中国養父母の訪日援助事業
7. 中国在住残留邦人への説明会並びに諸調査
8. 帰国者の支援を行う団体への活動助成
9. 教材の開発、出版